2022年4月28日木曜日

三英傑

名古屋まつり
名古屋は、日本のものづくりの中心地ですが、首都圏と関西に挟まれているせいか、その文化や気質は、今一つ知られていないところがあります。名古屋の人は、よく「名古屋は大きな田舎です」と言います。もちろん、そう言われたら、必ず否定しなければいけません。賛同すれば、名古屋人のプライドを傷つけることになります。ただ、文化や気質の知名度という点では、当たっている面もあります。名古屋に住んで、初めて知ることは多いのですが、その一つが「三英傑」という言葉です。英傑の意味は分かりますし、三英傑とは誰を指すのかも容易に理解できます。ただ、名古屋以外では、全く馴染みの無い言葉です。他では聞かない言い方だと伝えると、名古屋の人は、皆一様に驚きます。

三英傑とは、言うまでもなく、尾張の織田信長と豊臣秀吉、三河の徳川家康のことです。戦国時代を代表する三人の武将は、すべて愛知県の出身というわけです。江戸期まで尾張と三河は別な国であり、かつ英傑という言葉からして、明治以降に作られた概念であることは明らかです。廃藩置県で一つの県となった尾張と三河を団結させ、東京、大阪に対抗できる勢力を築こうという意思を感じさせます。明治期の殖産興業政策は、政府主導で進められます。尾張徳川家は、戊辰戦争の際、官軍として参戦しているものの、徳川御三家である以上、薩長政権とは距離があったはずです。明治の大財閥は、政府と結託して生まれますが、名古屋からは誕生していません。政府の援助を期待できない以上、名古屋は、自らの資本と努力で殖産興業を進めるしかなかったわけです。

気質も異なる尾張と三河は、互いに対抗する意識が強かったと言われます。それどころか、今でも、決して仲良しではありません。世界のトヨタは、愛知県を代表する大企業です。一方、尾張の名古屋市は、歴史的にも、規模的にも日本を代表する大都市です。名古屋の老人たちに、豊田市と言うと、必ず「ああ、挙母(ころも)ね」という言葉が返ってくると言われます。挙母は、トヨタが本社を置くまでは、三河の片田舎の小さな城下町でした。尾張の人たちからすれば、三河の田舎ものが、何を偉そうにしているか、ということなのでしょう。一方、三河のプライドの高さは、岡崎市中心部にある”康生通り”という地名からもよく分かります。 康生とは、家康が生まれたところ、という意味です。

いずれにしても、愛知県としての団結は、自然と生み出されるはずもなかったわけです。三英傑という概念で、県を一つにまとめるというアイデアは、実に見事な着想だったと思います。廃藩置県後、日本各地では、同じような苦労がありました。例えば、昭和54年まで分県運動が行われていた長野県では、県民の歌「信濃の国」が作られ、学校で徹底されました。今でも、長野県民は、皆、「信濃の国」を歌えます。毎年10月に開催される「名古屋まつり」のハイライトは、昭和30年に始まった郷土英傑行列です。三英傑が、三姫と武者たちを引き連れて行列します。三英傑役は、一般公募されます。三姫とは、濃姫、ねね、千姫のことですが、各デパートの店員から選ばれる習わしです。一度、見に行きましたが、大層立派な武者行列です。200万人という見物客を集める大イベントであり、名古屋のプライドを感じさせます。

今の名古屋で、御三家と呼ばれるのは、トヨタ、JR東海、中部電力です。御三家とは、新興財閥を指します。もともと名古屋には、五摂家という言葉があります。伊藤家の松坂屋、名古屋鉄道、東海銀行に、中部電力と東邦ガスを加えた五社を指しました。五摂家を中心に、江戸時代から続く20ばかりの名門が、名古屋財界を動かしてきました。名古屋出身の城山三郎が、1956年、本名の杉浦英一名義で出版した「創意に生きる~中京財界史」は、幕末から1950年代半ばまでの名古屋財界の軌跡を、克明に記載しています。名古屋財界は、尾張徳川藩の枠組みを活かしながら発展してきたと言えるのかも知れません。(写真出典:lifestylemarket.jp)

マクア渓谷