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ショパン |
安達さんは、政治に踏み込まないように、気を使いながらも、ショパンが母国ポーランドからパリに亡命したことに言及し、暗にロシアによるウクライナ侵攻を批判していました。フレデリック・ショパンは、亡命フランス人の父と没落貴族の母のもと、1810年、当時のワルシャワ公国に生まれます。音楽一家だったこともあり、幼少期からピアノに親しみ、7歳のおりには、人前で演奏を披露し、作曲も始めたようです。ショパン少年は、モーツアルトやベートーヴェンと並び称されるまでの天才ぶりを発揮します。11歳の年には、ロシア皇帝の前でも演奏しています。ちょうど、ショパンが、その演奏活動を欧州全域に広げ始めた1830年、母国ポーランドでは“11月蜂起”が起こります。
ポーランドは、ヨーロッパ中央部に位置する平原の国です。平原がゆえに、古代から人の往来が多く、豊かで、かつ隣国の干渉を受けやすい国だと思います。レフ族が、キリスト教を受け入れ、ポーランド王国を建てたのが10世紀頃です。その後、国は、王族による分断の時代が続き、モンゴルやドイツ騎士団の侵攻を許し、混乱します。14~16世紀、ヤギェウォ朝のもとで、ポーランドは隆盛を極め、ヨーロッパの大国になります。16世紀には、議会制民主主義国家としてのポーランド・リトアニア共和国が誕生します。ただ、その後、ポーランドは、隣国との戦争に疲弊していくことになり、18世紀後半には、ロシア、プロイセン、オーストリアによって分割されました。この間。ポーランド国民は、独立に向けた戦いを続けていくことになります。
11月蜂起も、その一つでした。ロシア皇帝から、フランスの7月革命鎮圧のための派兵を命じられたことをきっかけに、士官学校の若い下士官たちが蜂起します。さらにロシアの圧政からの独立を求める市民も加わり、国中で戦いが行われました。2年間に渡った蜂起でしたが、他の独立運動と同様、ロシアに粉砕されます。蜂起が起こった時、ショパンは、ウィーンにいました。故国での音楽活動は諦めざるを得ず、またポーランド分割の当事者であるオーストリアでは反ポーランドのムードが強かったため、パリへ向かいます。結局、ショパンは、ポーランドを想いながら、パリで生涯を過ごすことになります。この時期、ポーランド・ロマン派の詩人や画家たちが多く活躍していますが、その多くは亡命者でした。故国への強い想いが、彼らの創作活動の原点にあり、同時に、それがゆえに普遍性を持ち得なかったとも言われます。
ショパンも、まさにポーランド・ロマン派の詩人だったと言えます。希に見る才能と故国への想いが相まって、数々の傑作を生み出しました。その最高傑作の一つが、英雄ポロネーズです。ポーランド・ロマン派の詩人と異なり、ショパンが世界的名声を得るに至ったのは、言葉ではなく、音を用いて詩を紡いだからかも知れません。亡命芸術家は多く存在します。しかし、亡命詩人は、他の分野に比べて少ないのではないかと思います。国があって、国民がいて、詩は成立しているといえるのかも知れません。ポーランドが再び独立を勝ち得たのは、第一次大戦後の1918年でした。そして、1939年には、再びソヴィエトとナチス・ドイツによって分割されます。第二次大戦後、再び独立しますが、永らくソヴィエトの衛星国家とされ、民主国家となった1989年のことでした。(写真出典:ja.wikipedia.org)