「火の用心」という言葉は、徳川家康の家臣であり、三河三奉行の一人とされる本多作左衛門の手紙が原典とされます。長篠の戦いのおり、陣中から妻に宛てた手紙は、日本一短い手紙としても有名です。「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」と、実に簡潔明瞭なものです。ちなみに”お仙”とは、嫡子仙太郎のことであり、長じて、越前丸岡城主となっています。本多作左衛門は、戦場にあっては、豪胆な戦士であり、また奉行としては判断が早く、公平な仕事ぶりだったようです。また、忠義に厚く、家康にズケズケとものを言う人でもあったようです。その性格が、秀吉の不興を買うことにもなり、晩年は蟄居を命じられてもいます。無骨ながらも、君主を思い、家族を思うことは人並み以上の三河武士の典型のような人だったのでしょう。
夜回りは、江戸初期、幕府の指示で始まったようです。火事と喧嘩は江戸の華、と言われますが、とにかく江戸は火事の多い町でした。江戸三大大火と言えば、振袖火事とも呼ばれる1657年の明暦の大火、1772年の目黒行人坂の大火、1806年の丙寅の大火です。ただ、それらに匹敵する規模の大火は、実に100回以上あったようです。1641年の桶町火事を機に、大名が火消役を勤める大名火消が組織化されます。このころ、町内の防犯・防火のために自身番が置かれ、夜回りとともに「火の用心」という言葉も登場します。また、明暦の大火後には、旗本で組織される定火消が設置され、同時に、町火消もスタートします。ただ、町火消が制度化されたのは1717年のことであり、威勢良く纏を振り回す「いろは48組」が組織されました。幕末にかけて、江戸の消防を担ったのは、この町火消でした。
江戸に大火が多かった理由として、冬場の乾燥と強風、人口の密集、木造長屋の多さ、莨の火の不始末等が挙げられます。煙管は、吸い終わると、叩いて火の気の残る灰を落としますが、飛んだ先が悪ければ、すぐ出火します。また、放火の多さも江戸の大火の特徴とされます。放火の理由としては、火事場泥棒ねらいや怨恨が多かったようですが、復旧工事による商売繁盛を目論むケースも少なくなかったようです。また、一説には、町の区画整理等のために、役人が火消に放火をさせることもあったと言います。商売繁盛や区画整理等は、とんでもない話ですが、その前提は、そもそも火事が多かったということなのでしょう。ちなみに、放火犯、いわゆる火付は大罪であり、市中引き回しのうえで火焙りにされています。
当時の消火方法としては、もちろん水も掛けるのですが、木造長屋が燃えると、水では追いつかず、火元や近隣の建物を壊し、延焼を防ぐスタイルでした。幕府の防火対策としては、火除地や広小路を造り延焼を防ぐ、あるいは藁葺屋根を瓦葺に代えることや土蔵造りを推奨していました。もし江戸が土蔵造りや石造りの町並みになっていれば、大火は、ある程度防げたものと思います。しかし、経済的理由に加え、高温多湿な気候に地震の多さを考えれば、それは難しかったのでしょう。八っあんや熊さんが土蔵造りの長屋に暮らす姿は、とても想像できません。(写真出典:aucfree.com)