皇居外苑の楠木正成像 |
太平記は、作者も、成立時期も、いまだ明確にはなっていません。ただ、複数の作者によって、書き加えられたものという説が有力であり、成立時期に関しては、14世紀後半と見られています。鎌倉幕府の崩壊、建武の新政、南北朝の分裂、そして南北朝合一の直前までが記述されています。公家政権から武家政権への移行期における両者のせめぎ合い、そして各々の内部抗争による大混乱時代が描かれています。東国武士が樹立した鎌倉幕府は、武家政治の始まりに過ぎず、後鳥羽上皇が北条義時に敗れた承久の乱でも、まだ確立とは言えず、後醍醐天皇による巻き返し、さらには室町幕府による支配へと続く過程が必要でした。しかし、室町幕府までは、まだ公家政治の枠組みが継続されていたとも言えます。それが転換点を迎えたのが、日本史の分水嶺とも言われる応仁の乱なのでしょう。
太平記は、武家政治の揺籃期を描いており、それは武家社会の基本的性格が醸成される過程でもあります。太平記には、その後の武家社会を支配することになる朱子学の影響があることはよく知られています。儒教の原理主義のような朱子学においては、絶対的真理としての”理”が存在し、それは仁・義・礼・智・信の五常で現わされます。いわゆる大義が重視され、君臣父子という上下関係が絶対的なルールとされます。武家社会の基本的思想となり、江戸幕府では官学とされました。幕末には、尊皇攘夷という思想も生み、明治政府の統治思想に引き継がれ、太平洋戦争の終戦、つまり武家政治が終わるまで日本を支配した思想と言えます。李氏朝鮮では、朱子学を国を治める根本に置いたことで、硬直的な社会が構成されました。日本では、あくまでも学問という位置づけでしたが、寺子屋の教育等を通じて、社会に浸透します。
一方、太平記には、朱子学と相反する”婆娑羅”も描かれています。婆娑羅とは、革新的で権威を軽んじる行動や服装を言い、後の下剋上につながります。公家政治の復権を企てた後醍醐天皇は、自身も革新的であり、婆娑羅をうまく使って戦ったとも言えます。朱子学を背景とする太平記では、世を乱す者として否定的に描かれています。ただ、婆娑羅は、実力主義とも言え、武力で物事を解決する武家社会の本質でもあると考えます。南北朝時代に現れ始めた武家の実力主義は、本質的がゆえに、広がりを見せ、ついには応仁の乱、戦国時代へとつながります。一方で、戦乱の世を終わらせた江戸幕府は、朱子学を重視せざるを得なかったとも言えます。武家政権は、この矛盾する二つの性格を抱えながら、太平洋戦争まで突き進んだわけです。日本の歴史は、部族社会、公家政権、武家政権と、5~6百年単位で変遷してきました。とすれば、百年に満たない民主主義社会など、まだ揺籃期と言えるのかも知れません。
太平記を代表するスターと言えば、後醍醐天皇への忠義に生きた楠木正成です。江戸、明治、そして終戦まで、楠木正成はスターであり続けました。朱子学的観点からすれば、武家社会は、楠木正成をスターにしておく必要があったわけです。戦後世代にとって、楠木正成は、やや縁遠い人になりました。恐らく、GHQの指示があり、教科書はもとより、様々な場面での露出が制限されたからなのでしょう。そのことが、私に限らず、戦後世代が、南北朝時代の歴史を不得手とする理由につながっているのかも知れません。(写真出典:fng.or.jp)