2022年4月11日月曜日

「ドライブ・マイ・カー」

監督:濱口竜介     2021年日本

☆☆☆☆

(ネタバレ注意)

SAAB900は、好きな車で、アメリカで5年乗りました。北欧らしいしっかりとした造りの安定感あふれる車です。当時、アメリカでは、オーナーの学歴が最も高い車として知られていました。アメリカ人の仕事仲間は、サーブ・オーナーを”サーヴィ”と命名し、眼鏡をかけ、髭を生やしたインテリっぽい奴が乗る車と言っていました。村上春樹の短編「ドライブ・マイ・カー」では黄色いサーブ、本作では赤いサーブのターボが使われています。映画では、別の車種でもよかったのでしょうが、サーブにこだわった点に監督のセンスと思い入れを感じます。ま、ターボではなく、クラシックとも呼ばれるベース・カーの方が、より良かったとは思います。

日本映画は、ほとんど観ないのですが、本作はあまりにも評価が高いので、観てみました。とても良く出来た作品だと思います。スローテンポで静かな展開に、どうなることかと思いましたが、興味深い伏線が多数埋め込まれ、それらをじっくり考えさせる演出に、3時間という長尺も苦になりませんでした。一定のトーンやテンションを3時間継続させる監督の力量は見事なものです。世界レベルとも、現代の映画の流れの最先端にいるとも、言えるのでしょう。まずは脚本の良さが光ります。そして、それを活かす自然主義的な演出が見事です。キャスティングも、芝居臭さが強くない”ちょうどいい”感があります。特に韓国の俳優たちが映画をしめていたように思います。

テーマは、喪失と再生、ということになるのでしょうが、構成が興味深く、作品に奥行きを持たせています。主人公の喪失感を生んでいるのは妻と娘の死ですが、再生は、主人公が自分自身と真摯に向き合うことで起こります。それを手助けしたのは、ドライバーであり、若い役者であり、チェーホフの”ワーニャ伯父さん”であり、芝居の他の出演者たちという構図です。ただ、再生のプロセスは、すべて妻が仕組んだものであり、現実ではなく、主人公の内的世界だけで展開していることかも知れない、とも思わせます。そう思わせるのは、巧みに埋め込まれた伏線の数々であり、観客は、妻が支配しているかのような微妙な二重構造を、うっすらと感じるように計算されています。それが、この映画を、深みのある、そして緊張感のある映画にしています。

すべての伏線が二重構造を暗示しているように思えます。舞台で演じられるワーニャ伯父さんとシンクロする現実、主人公の演出家と役者という両面性、まるで鏡に映った主人公のように喪失感を持つドライバー、一見空虚な若者ながら強いメッセージを主人公に伝えた若い役者、温暖な広島の風景とドライバーの原点である雪の北海道、多言語で演じられる舞台、声を失い手話で演技する役者、日本と韓国、広島の過去と現在。そして、縦糸としてそれらをつなぐ赤いサーブは、主人公の妻そのものです。タイトルの「ドライブ・マイ・カー」は、ビートルズの楽曲ですが、性的な意味合いを持つことが知られています。“私の車を運転して”とは、主人公に対する妻からのメッセージそのものなのでしょう。

舞台上のラストで、ソーニャがワーニャに語る”耐えて生きる”というセリフは、ストレートにこの映画の主題を語っています。思わず涙がこぼれました。舞台でソーニャを演じるのは、声を失った韓国の俳優です。彼女もまた、主人公の妻そのものなのでしょう。声を失ったことが死んだことを暗示し、手話は、死んだ後に主人公の再生を手助けすることの暗示なのでしょう。ドライバーが韓国で微笑みながらサーブを運転しているというラスト・シーンは、謎めいています。ドライバーも、車と同じく、実は主人公の妻なのだと思います。日本でないことは、彼女が死んでいることを暗示し、微笑みは、夫を再生させたという安堵感なのではないでしょうか。(写真出典:dmc.bitters.co.jp)

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