日本でトンネルが発達しなかったのは、馬車の文化が無かったからだと思います。日本には、大規模な会戦が出来るような平原が少なく、結果、古代の戦車は生まれていません。欧州やオリエントでは、戦車の発達が馬車の文化を創ったものと思われます。他にも、日本の在来馬が小型で馬車を引くには限界があったこと、あるいは山がちで雨の多い風土では、馬車用の道の整備が難しかったことも影響しているかも知れません。もっとも、日本にも乗用の牛車はありましたが、これは都を多少進むものであり、旅をするものではありませんでした。いずれにせよ、馬車の文化が無かったとしても、トンネルのニーズは大いにあったはずです。ただ、掘る手間暇を考えると、人馬で峠を越していく方が合理的だったのでしょう。
禅海は、越後高田藩士の子息で、”六十六部”と呼ばれる行脚僧でした。六十六部とは、自ら写経した法華経66部を全国の霊場に納めてまわる僧でした。禅海は、耶馬溪の羅漢寺に経を納めた際、土地の人々が、奇岩で知られる競秀峰の麓の岸壁を、鎖をつたいながら通る姿を目にします。そこでは、しばしば人命が失われていることを聞き、心を痛めます。禅海が、一人で隧道の掘削を始めたのは1735年頃であり、以降、托鉢勧進で得た資金で石工も雇い、掘り進めます。そして、1764年、全長342m、うちトンネル部分144mの洞門を完成させます。その執念には驚かされます。恐らく、洞門を掘り続けることが、禅海にとっての禅だったのでしょう。ちなみに、開通後、しばらくは通行料を取っていたらしく、日本初の有料道路とも言われています。
耆闍崛山(ぎじゃくっせん)羅漢寺は、羅漢山の洞窟や亀裂に埋め込まれるように堂が並び、4千体とも言われる石仏が安置されています。また、五百羅漢像は、日本最古のものとされます。多くの寺を訪れてきましたが、これほど異形な寺は無かったように思います。そもそも、火山活動が生み出した岩石を、山国川が削り込んだ耶馬溪の風景自体が異形の塊です。小豆島の寒霞渓、群馬の妙義山と並び、日本三大奇景とも言われます。さらに言えば、その名称すらも異形と言えます。もともとはシンプルに”山国谷”と呼ばれていたようですが、この地を訪れた漢学者の頼山陽が、中国の山水画を思わせる風景に感動し、”やまくにだに”を中国風の当て字にしたのが耶馬溪なのだそうです。この話、あまりピンとこないのは、漢字の知識不足ゆえでしょうか。
ちなみに、日本最長と言われる手掘り隧道は、新潟県中越地方にある”中山隧道”です。長岡市の小松倉地区は、山中深くにある集落であり、冬場には積雪が4mという豪雪地帯でもあります。買い物はもとより、急病人が出ても、急峻な中山峠を越えるしかありませんでした。たまりかねた住民たちは、1932年、隧道掘削を決断します。全長922mの隧道は、16年間、住民たちが、無報酬で、ツルハシだけを使って掘り進めたものです。行政は、何も手助けしなかったのかと訝ってしまいます。それどころか、国は、1998年まで、住民手掘りの中山隧道を国道291号線として機能させていました。これまた“青の洞門”並みに驚くべき話です。(写真出典:ja.wikipedia,org)