2022年4月30日土曜日

茶の湯

千玄室大宗匠
大学生の頃、社会に出てから、茶の湯の一つも飲めないようでは恥ずかしい、と父親に言われ、遠州流の師範だった親戚の茶室で、にわか稽古をしたことがあります。言われたことを言われた通りにやっただけの半日でした。まったく興味がわかなかったので、それっきりになりました。当然ながら、何一つ覚えていません。後に、高級料亭などで、茶の湯を振る舞われた際、あの時、もう少し稽古しておけば良かったな、とは思いました。さはさりながら、近年のビジネス・シーンで茶の湯を頂くことなどありません。また、プライベートでも、そのような付き合いはありません。出されたら、一言「不調法でございます」と添えて、真似事をしておけば済むとも言えます。

お茶は、遣唐使たちが中国からもたらしたとされます。当時は、蒸して固めた団茶ばかりだったので、”茶色”という言葉も生まれます。また、貴重品であったこともあり、しばらくは薬として扱われていたようです。日本に喫茶の習慣を持ち込んだのは、臨済宗開祖の栄西だとされます。鎌倉時代のことです。お茶の木の栽培も始め、製法も確立しました。ここでお茶と禅との関係ができあがるわけです。生死をかけて戦う武士たちにとって、禅は、またとない精神修養となります。お茶も同様、ひとときの安らぎをもたらし、平常心を養うことにつながりました。ひとたび武士階級に喫茶の習慣が普及すると、茶会が開かれるようになります。覇権を争う時代にあって、茶会は、茶葉、道具をひけらかす場として、派手さを増し、闘茶なども行われるようになります。

そうした傾向に対するアンチテーゼとして”佗茶”が生まれます。室町時代の浄土宗の僧侶村田珠光が、佗茶の創始者とされています。珠光は、奈良の田舎に庵を組み、訪れる人を茶でもてなしたそうです。とは言え、当時流行していた唐物といわれる豪華な輸入ものの茶器を使うのではなく、欠けた茶碗や質素な竹柄杓などで茶を点てました。珠光は「心の師とはなれ、心を師とせされ」という言葉を残しています。茶の湯は、己の心を導くものであり、己の我執の心に従うべきものではない、といった意味でしょうか。浄土宗の祖とも言われる恵心の「往生要集」が原典とされますが、茶道の精神を端的に伝える言葉のように思えます。珠光の佗茶を大成させたのが千利休ということになります。興味深いことに、利休は、一切書物を残していません。その人となりや点前は、周囲の人たちが書き残したものに依るばかりと聞きます。

利休の佗茶は、武士の間に広まり、茶人たちは大名等の庇護を受けます。江戸期に入ると、町人たちの間にも茶の湯が広がっていきます。その受け皿となったのが、町方の出身であった千家でした。表、裏、江戸の三千家の他に遠州流、織部流なども、大量の入門者をさばくために家元制度を創設し、また稽古法としての七事式なども考案されました。商人たちの間で、様々な芸事を楽しむ遊芸が流行しますが、茶の湯も、その一つとなったわけです。一方で、利休の教えを守ろうとする流れもあり、茶の湯の心得とされる「和敬清寂」という言葉も生まれます。明治期に至り、大名の庇護を失った茶の湯は、廃れかけますが、主に女子の礼儀作法として広まっていきます。日本文化を体現する総合文化という位置づけは、戦後形成されたものだと聞きます。

「和敬清寂」はいい言葉だと思います。亭主と客が、和して、互いを敬う。その時と場を生む茶室や茶器は静寂を旨とする、ということなのでしょう。作法に身を委ね、静かな心を得るという考え方も理解できます。余談ですが、企業のトップを勤めた方が亡くなると「お別れの会」がホテル等で開かれます。東京では昼の立食パーティです。京都では随分異なります。全てではないかもしれませんが、私が参列した会は、着席、指名献花方式でした。最も驚いたのが、会の冒頭に行われた千玄室大宗匠による献茶でした。そのてらいも力みもなく、自然で流れるようなお手前には、神々しさすら感じました。達人の凄みとともに、京都企業の奥深さも感じた次第です。(写真出典:news-postseven.com)

マクア渓谷