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鬼界ヶ島(硫黄島)俊寛象 |
鹿ケ谷の陰謀は、後白河法王、比叡山延暦寺、平清盛の緊迫した関係のなかで、突如、発覚した平家打倒を計る陰謀です。急速に勢力を増した平清盛は、後白河法王と政治と人事の主導権を争う関係になります。人事を巡る争いは、緊迫した関係となりますが、後白河法王の女御にして高倉天皇の母、そして清盛の正室時子の妹である平滋子(建春門院)が、うまく取り持ち、表面上の平穏が保たれていました。ただ、建春門院滋子が亡くなると、平家と院の近臣との関係は悪化し、一触即発の事態へと陥ります。ただ、後白河法王が折れる形で、一旦、危機は回避されます。そして、ちょうどその時、発生したのが白山事件です。
加賀守・藤原師高の目代(現地代理人)だった弟の師経が、領地を巡る争いから、白山にあった比叡山延暦寺の末寺を焼き払います。これに怒った比叡山の僧兵たちが、師高の処分を求めて、朝廷に強訴をかけます。後白河法王は、やむなく師高を流罪にするなどして、事態を収拾します。しかし、師高の父親で院の近臣だった西光に泣きつかれた後白河法王は、一転、強訴の張本人として天台座主の明雲を流罪にします。延暦寺の僧兵たちは、護送される明雲を奪還し、比叡山に立てこもります。後白河法王は、朝廷と都を防衛する任にあった平家に、比叡山攻撃を命じます。延暦寺を攻撃すると仏罰が下ると信じられていた時代にあっては、異例の強硬策でした。
敵対関係にあるとは言え、法王の命令には従わざるを得ません。しかし、命令に従って延暦寺を攻撃すれば、仏罰を受けて平家一門が破滅するかもしれません。清盛は、これが後白河法王による平家潰しの陰謀だと理解したはずです。ところが、攻撃開始直前の夜半に至り、突如、鹿ケ谷の陰謀が発覚。清盛は、比叡山に向かっていた兵を都に呼び戻し、素早く対処します。首謀者とされた西光は拷問され、自白後に即刻打ち首。藤原成親は流刑の後、謀殺されます。残る俊寛らは鬼界ヶ島へと流されました。清盛にとっては、後白河法王の勢力を削ぎ、西光処分で比叡山を攻撃する理由もなくなるという一石二鳥の事件でした。院の近臣たちが、鹿ケ谷に集まっていたことは事実かもしれませんが、平家打倒計画は非現実的であり、清盛のでっちあげとする説が有力です。
清盛は、当初から院の近臣である俊寛を殺すつもりだったのでしょうが、陰謀事件の処理としての体裁を保つために流罪にしたものと思われます。恩赦は行うとしても、後白河法王と近臣への牽制として、俊寛を残したとも考えられます。清盛に利用された俊寛は、歴史の大きなうねりに翻弄された人々の一人と言えます。一つの体制が制度疲労を起し、別な体制へ変わっていくという歴史の必然のなかでは、清盛と後白河とて同様なのかも知れません。清盛は、反平家の火の手があがる中、福原へ遷都し、仏罰とも言われる謎の熱病で死にます。公家政権回復を目指し、かつ清盛の迫害を受け続けた後白河ですが、最後には源平合戦で平家を滅ぼしました。しかし、その勝利の代償は,、長く続く武家政権の幕開けでした。”猛き者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵におなじ”というわけです。(写真出典:mapple.net)