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法華経寺祖師堂 |
五勝具足とは、授法の発初、精舎の最初、寺号の発心、本尊仏像造立の最初、説法権与の最初の五つが揃ったという意味だそうです。下総国を治めていたのは、源頼朝の蜂起に加勢し守護となった千葉氏でした。その家臣である若宮領主富木常忍、中山領主太田乗明は、幾度か迫害された日蓮を匿います。法華経寺開山にあたり、二人の依頼を受けた日蓮は、自ら立像釈迦牟尼佛を安置し、法華堂開堂供養会を営み、百日百座の説法を行ったとされます。日蓮ゆかりの法華経寺には、国宝の「立正安国論」と「観心本尊抄」が安置されています。他にも日蓮筆遺文、五重の塔、祖師堂等が重要文化財に指定されています。日蓮宗の総本山は身延山久遠寺ですが、法華経寺は、池上本門寺等と並び、大本山とされています。
また、境内には、日蓮が安置した鬼子母神を祀るお堂があります。母の看病のために安房国に帰郷した日蓮を、地頭が襲撃し、日蓮は深手を負います。いわゆる小松原の法難です。その際、日蓮を命を救ったのは鬼子母神だったとされます。法華経寺に避難した日蓮は、鬼子母神堂を建立します。参拝する江戸庶民のお目当ては、この霊験あらたかな鬼子母神だったようです。鬼子母神は、500人ともいわれる我が子を育てるエネルギーを得るために、人間の子供を食べる鬼でした。釈迦は、一計を案じ、鬼子母神の末子を隠し、必死で我が子を探す鬼子母神を諭し、改心させました。以来、鬼子母神は、仏法の守護神となります。ちなみに、江戸三大鬼子母神は、”恐れ”入谷の真源寺、雑司が谷の法明寺、そしてこの法華経寺とされます。
法華経寺で、私が、最も気になったのは、祖師堂の屋根です。入母屋造が二棟連なったような構造になっており、比翼入母屋造と呼ばれます。比翼入母屋造の建物は、岡山の吉備津神社と、この法華経寺祖師堂しかないと言われます。両者には、何らかの関係があるのかもしれないと、ネットで勇んで調べてみました。結果的には、何の関係もなく、単に構造上の類似に過ぎないようです。大きな建屋に格式の高い入母屋造の屋根を乗せると重くなりすぎるため、二つに分けたということだそうです。吉備津神社は、だんだん高くなる外陣、中陣、内陣を一つの建屋に収め、祖師堂も本殿と拝殿が一つになっています。いずれも、大型の建屋となっているわけです。大分の宇佐神宮の本殿は、切妻屋根を二つ乗せた構造になっています。このスタイルを格上げして入母屋造に進化させたのが、比翼入母屋造なのでしょう。
法華経寺には、今も荒行堂があり、毎年冬場には、100日間の荒行が行われます。全国から100名程度の僧が集まると聞きます。外界との接触を断ち、わずかな粥だけで、読経に明け暮れるという修行です。また、病気平癒のための加持祈祷も行いますが、かつては精神病を患う人のための療養院もあったようです。明治期になると医師法に反するというので、医院として独立させ、今も寺の裏手に中山病院として残っています。JR総武線の下総中山駅、京成の中山駅の先にある参道の門前町も、寂れたとは言え、残っています。最近は、若い人たちのおしゃれな店も増えつつあります。守るべきは守ったうえで、時代と共に変わっていくことは、実に日蓮的だとも思えます。(写真出典:pref.chiba.lg.jp)