分遣隊が斜里に到着したのは7月末。急ぎ兵舎を作りますが、生木を使うしかなかったので、反り返りですきま風だらけになったようです。暖をとるにも生木を使うしかなく、煙で難儀したようです。8月末には初雪を観測。米と味噌だけは豊富だったようですが、野菜もなく、海の凍結で漁もできません。結果、ビタミン不足から浮腫になります。さらに凍結した海からロシア兵が攻め込むのではないかという恐怖も大きかったようです。
津軽藩は、この殉難を藩の恥として、記録を抹消、箝口令をしきます。それが明るみに出たのは150年後の1954年、生残り藩士の日記発見が契機でした。事件から半世紀後、幕府は、津軽藩に浮腫の薬を与えます。南蛮渡来の貴重品、和蘭珈琲でした。珈琲を飲んだ初めての庶民は津軽藩士とされています。弘前の成田専蔵珈琲店は、当時の珈琲を再現。市内の数カ所の喫茶店で「藩士の珈琲」として供されています。それにしても北海道はいつから日本の領土になったのでしょうか。1855年の日露和親条約以前はあいまいです。鎌倉期、安東氏が蝦夷沙汰代官職に任ぜられた頃から交易対象として認知され、その配下だった蠣崎氏、後の松前氏は、秀吉、ついで江戸幕府から、道南を領地として認められます。ただ、北海道の大半は蝦夷地(アイヌの土地)のままでした。1799年、ロシアを警戒した幕府は蝦夷地を直轄領化します。これが、北海道の領土化の最初ではないかと思われます。
藩士の珈琲 出典:ぐるたび