2020年4月25日土曜日

お膳の文化

どうも、食事の際、食器を手に持って食べるのは日本人だけらしいのです。同じお箸の文化圏ながら、中国・韓国で器を持って食べるのは、ほぼマナー違反。何故そうなったかについては、様々な説があるようです。お米への敬意をあらわす、日本米は粘りがあって匙にはむかない、家が狭いから、家に食堂という発想がなかったから、等々。どれも、イマイチ、しっくりこないわけです。私は、まずお膳ありき、の文化なのではないか、と思います。

古来、履き物を脱いで、座って暮らす生活においては、食事は折敷等、お盆状のものを敷いて食べていたようです。それに足が付き、衝重等、お膳の原型が定着したのは平安期だったようです。その背景には、個食の思想があります。この頃、社会的にも、家庭内でも、序列や身分が定着し、身分の違う者が同じテーブルや大皿で食事することなどあり得なかったわけです。さらに、個食文化の背景には「穢れ」の発想があったようです。穢れは難しい概念ですが、ここでは公衆衛生的な穢れだと思います。要は、度重なる疫病対策だったのでしょう。

お膳が前提となれば、食器を手に持って食べことは合理的であり、匙の必要性は薄れます。食器を手に持つ文化を、精神的レベルまで高めたのは禅宗です。道元禅師が定めた食事の作法は、今でも曹洞宗で生きており、かつ現代の作法に通じるところが多いと聞きます。武家が禅宗に帰依すると、道元の作法は世間に広がり、室町期、武家故実(しきたり)の小笠原流によって体系化されます。

小笠原流は、武家故実、弓道、馬術、礼法に関わる流派。江戸幕府に用いられたことで、定着、一般化し、今でも日本の食事作法の基本は小笠原流だと言えます。ちなみに、小笠原流では「箸先五分(1.5cm)、長くて一寸(3cm)」と言われ、それ以上汚してはいけません。達人ともなれば、一分以内と言われます。私は、いつも、これが気になります。
                                  写真出典:輪島市



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