2020年4月30日木曜日

オスマン帝国軍楽隊

世界で初めて軍楽隊を作ったのは、オスマン帝国でした。13世紀末、アナトリアから興ったオスマンは、瞬く間に中東、地中海東部を支配する世界帝国となります。軍楽メフテルは、士気高揚、威嚇、儀礼用を目的に作られ、軍楽隊は戦場へも赴きました。15~16世紀、オスマンの侵略を受けた欧州では、メフテルが聞こえると、人々は恐れおののき逃げたと言います。以降、欧州でも軍楽隊が普及していきます。日本では、明治維新まで軍楽隊は存在しません。必要がなかったからです。

オスマン軍の精鋭部隊イェニチェリは、強制的に徴用されたキリスト教徒の子弟で構成され、共同生活と妻帯禁止を課す一方で高い身分と報酬を与えられたエリート軍団。その洗脳に際し、音楽も活用されたのでしょう。また、多国籍、多文化圏出身の兵士で構成されるオスマン軍全体も、帰属意識を強化するために音楽をうまく使ったのでしょう。威嚇という面では、例えば、欧州の人々にとって、メフテルは、聞き慣れないオリエントの響きであり、イェニチェリの残虐さと相まって、さぞかし不気味な音楽だったのでしょう。あるいは、ペルシャの脅威、モンゴルの恐怖といった古い記憶と結びついていたのかも知れません。

メフテル自体は、テュルクの伝統音楽を土台としているのでしょうが、オスマン帝国軍楽隊は、士気高揚、威嚇、両面とも、多民族、多文化を前提として成立したと言えます。いわば、複数国家、多文化を支配する帝国の姿そのものでもあります。江戸時代以前の日本に、軍楽隊が必要なかった理由の一つがここにあります。もちろん、日本がオスマンの攻撃を受けず、メフテルを知ることがなかったからでもありますが。

40年前、黒海からイスタンブールへ向かう乗合バスの車中、トルコ人の老人から聞いた話があります。昔、モンゴル高原に二人の兄弟がいた。一人は東へ向かい日本人になった。一人は西へ旅立ちトルコ人になった。我々は兄弟である。人類学的な話というよりは、エル・トゥールル号を救助し、宿敵ロシアを日露戦争で破った日本への親近感なのでしょう。
写真出典:nekonoheya

マクア渓谷