2020年4月30日木曜日

営業昔話(5)ソーライ

昔々、客を創った男がおったとさ。

乗客が少ないので会社は赤字だ、と社員に言われた男は「それなら、乗客を創ればいい」と言い放ちます。男の名は、小林一三、阪急電鉄創業者です。甲州の出、慶應義塾、三井銀行を経て、阪急電鉄を創業します。一三は、沿線に宅地開発を行い、当時珍しかった割賦販売も導入します。さらに動物園、温泉、野球場など、開発していきます。温泉の余興として始めたのが宝塚少女歌劇団、後の宝塚歌劇団です。

昭和4年(1929年)には、梅田駅の上に、日本初のターミナル百貨店である「阪急百貨店」を開業します。開店当初は、大層な人出で、大食堂も大人気だったそうですが、ほどなく昭和恐慌が襲いかかります。俸給を減らされた会社員たちは、大食堂で一番安いライスだけを注文し、テーブル備え付けのソースをかけて昼食にしたと言います。ソース・ライス、略してソーライの客が増え、困った店側は、ついに「ライスだけの注文お断わり」と張り紙します。

これを聞きつけた一三は「ソーライ、大いに結構じゃないか。」と、新聞に「ライスだけ注文のお客さま大歓迎」という全面広告まで出させます。大食堂は、ソーライ客で混み合い、一三は、ニコニコしながら食堂内を歩いていたそうです。困惑する社員たちに、一三は語ります。「彼らは、今、貧乏だが、景気が戻れば、いずれ結婚し、今度は、家族を連れて、戻ってきてくれるだろう。」一三の目には、未来の客が見えていたのです。

マーケティングの基本は、ターゲットを絞り込むこと。一三は、これが見事にできていました。これからの日本社会は、会社員が大層を占める。そう見込んで、比較的安価な郊外住宅を開発し、彼らが買いやすい割賦販売を導入し、家族向け行楽地を準備し、駅で買い物させたわけです。後に日本のスタンダードとなる鉄道沿線を中心としたライフ・スタイルの提案です。自称「鉄道の素人」は、実にマーケティングの達人でした。

景気が回復した頃、阪急百貨店の大食堂に、また騒動が持ち上がります。昼食を食べた客が、食事代とは別に、皿の下にお金を置いて帰るという事件が頻発します。苦しい時代を、ソーライで生き延びた会社員たちによる、ささやかな恩返しでした。その律儀な会社員たちこそが、後の関西財界の隆盛を築いたものと確信します。

小林一三                  写真出典:山梨県立文学館




マクア渓谷