ヘミングウェイは、人生の後半を、キューバのハバナ郊外で過ごしました。所有する広大な農園フィンカ・ビヒアで書かれた「老人と海」は、彼にノーベル賞をもたらします。最晩年、キューバは、カストロによる革命の渦に巻き込まれます。ヘミングウェイは、カストロを支持していました。戦火を逃れていたヘミングウェイが、キューバに再入国した際には、ハバナ市民から熱烈な歓迎を受けています。革命政府樹立後、カストロは米国との関係を維持しようとしますが、親米政権を倒された米国の姿勢はかたくなで、キューバはソビエトとの関係を深めていきます。60年、革命政府が、外国人資産の国有化を発表すると、ヘミングウェイは、原稿や財産を残したまま、米国に帰国します。そして61年、ついにキューバと米国は国交を断絶。その年の夏、アイダホ州ケチャムの自宅に戻っていたヘミングウェイは、愛用のショットガンで自らの命を絶ちました。
ヘミングウェイの最後の妻メアリーは、キューバに残してきた遺品を米国に移そうとします。しかし、国交断絶のうえに、ケネディが許可したビッグス湾侵攻作戦も見事に失敗し、両国の関係は最悪の状態にありました。米国市民によるキューバ渡航も完全に禁止。困ったメアリーは、ケネディの妻ジャクリーンに計画を打ち明け、協力を依頼します。それを聞いたケネディは、米国の至宝ヘミングウェイのため、メアリーの渡航を例外的に許可します。キューバに乗り込んだメアリーは、カストロと直談判し、フィンカ・ビヒアの放棄と引き替えに、遺品の多くを運び出すことに成功しました。さすがヘミングウェイが愛した女です。

後年、メアリーは、ケネディ夫妻の尽力に感謝し、遺品のすべてをケネディ図書館に寄贈しました。現在、フィンカ・ビヒアは、ヘミングウェイ博物館として客を集め、彼が通いつめたバー「ラ・フロリディータ」は聖地となっています。いつか、その赤いカウンターで、ヘミングウェイが作ったというパパ・ダイキリを飲んでみたいものです。
La Floridita 出典:AD