2020年4月19日日曜日

十三の砂山

冬の日本海を代表する味覚の一つが鱈。福岡や北海道の一部では明太、韓国ではミョンテ、中国北東部沿岸やシベリアではミンタイと呼ばれます。古代から続く日本海の交流の証しとも言えます。南は、東松浦半島・壱岐・対馬・朝鮮半島と続く海の道、北では、樺太と大陸の間にある間宮海峡(タタール海峡)で、日本列島と大陸はつながります。冬に凍結する間宮海峡の最狭部はわずか7km強。かつて日本海交易を背景に隆盛を誇ったのが安東氏。その拠点は、津軽半島の十三湊(とさみなと)でした。14世紀の最盛期には、「十三千塔」といわれるほど多くの神社仏閣を擁し、大いに賑わっていたようです。

北条家の御内人であった安東氏は、鎌倉中期、蝦夷沙汰代官として、陸奥に赴任します。縄文時代から交易拠点であった十三湊は、安倍一族、後に奥州藤原氏が支配していましたが、安東氏はこれを攻め、自らの拠点とします。安東氏は、アイヌ、大陸、朝鮮半島との交易で、大きな利益をあげます。大陸伝来の造船技術と航海法を活用した安東水軍は、当時、最強だったという説もあります。元史に記載される元の樺太アイヌ襲撃の報復として、安東水軍がアムール川流域のキジ湖まで攻め入ったという記録もあるようです。

安東氏は、青森県の大半、秋田北部、北海道南部まで勢力を広げますが、二家に分裂。北部を治めた下国家は、南部氏に敗れ、秋田北部を支配した上国家は、その後、大名秋田家として明治まで存続しました。安東氏没落の背景には、十三湊の劣化があるようです。十三湖は、十三の川が流れ込むことから命名されました。古代には、津軽半島の大層に広がる内海でしたが、土砂の堆積が進み、港としての機能が失われていきました。堆砂は、今も進んでいます。

十三湊の栄華は「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」に詳しいのですが、これは日本三大偽書の一つ。発掘調査も行われていますが、資料の少なさが偽書を生んだとも言えます。津軽民謡「十三の砂山」で「十三の砂山、米ならよかろう」と歌われるほど荒れた十三湖でしたが、土砂が堆積した土地は、現在、水田になっています。結果、米になったとも言えます。
十三湖      出典:るるぶ&more


マクア渓谷