2020年6月28日日曜日

唐入り

福岡は、いつ行っても活気溢れる魅力的な街です。魅力の一つは食文化。数ある名物のなかで、私が毎回欠かさないものは、呼子のイカです。あの甘さは病みつきになります。一度、呼子の朝市へ出かけたことがあります。イカも堪能しましたが、はじめての松浦半島で驚いたことが二つあります。一つは、玄海原発の福岡への近さ。近すぎませんか?今一つは、名護屋城跡の大きさです。当時、大阪城に次ぐ規模だったようです。

名護屋城は、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際、出兵拠点として築かれ、秀吉の死後、速やかに解体されています。当時、松浦半島は、各大名の陣屋で埋め尽くされ、20万を超す兵が集まっていたそうです。明らかに日本の中心だったわけです。また、朝鮮出兵は、規模において、当時、世界最大の戦争だったともいわれます。ところが、いまだに定説がないのが、秀吉の出兵意図。秀吉自身が「唐入り」と称しているとおり、朝鮮半島は前段戦に過ぎず、目標はあくまでも明の平定でした。それにしても、何故?

余りにも資料が少なく、有力な説も確証に欠けます。大名への俸禄としての土地の拡大を狙ったという説、大名たちの戦力・財力を減らすために出兵したという説、明や朝鮮半島も含めて天下統一と認識していたという説、貿易の拡大を求めたという説、果ては妄想、発作的思いつき説までありますが、いずれも決定的な確証はありません。むしろ、証跡の少なさの中にこそ真実があるのではなかとも思えます。

つまり、下克上の時代ゆえ成りあがることができた秀吉は、豊臣家の安泰など望むべくもないことは百も承知。そこで、大名弱体化どころか、大名をすべて国内から放逐しようと考えたのではないでしょうか。だからこそ誰にも本音は語れず、真意が悟られぬよう言葉少なだったと考えます。実に幼稚な発想ですが、その絵の大きさ、単純さ、直截さこそ秀吉の強さだったとも思えます。ただ、出兵したのは子飼いの大名だけで、家康等は参戦しておらず、辻褄が合いません。これは「隗より始めよ」ということであり、明出兵への地ならしだったと考えられます。

とは言え、大名たちも、秀吉の狙いに薄々気づいており、だからこそ、秀吉の死後、即座に名護屋城は解体されたのではないかと思います。朝鮮への気遣いという説もあるようです。いずれにしても、かくも巨大な城郭の解体に関する資料がほとんど何も残っていないと聞きます。いかにも不可解。大名たちの嫌悪感の現れのようにも思えます。
名護屋城復元模型  出典:saga museum


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