昼過ぎ、大船渡から釜石を目指します。三陸の海岸を貫く国道45号線が不通のため、一旦、内陸の北上川沿いまで戻り、釜石を目指す予定でした。しかし、直前、45号が開通したとの情報が入り、海沿いに釜石へ向かいました。所々、崖が崩れ、ギリギリの一車線通行になっていました。今、余震が来たらと思うとゾッとしました。途中、タクシーの運転手さんが、山形から持参した菓子パンを分けてくれました。昼食を取れる状況ではなかったので、本当に助かりました。釜石の事務所は、商店街に面したビルの3階にあり、無事でした。2階までは完全にやられ、ビル内の立体駐車場では、車が重なりあっていました。ビルの裏手は狭い路地の飲食店街であり、建物が折り重なるように倒れていました。事務所の窓からは、港が見えます。震災当日、港に白い水煙があがるのが見え、皆で、急ぎ避難したとのことでした。
近くの高台にある学校へ避難したところで、職員の一人が、すぐ近くの家に一人でいる母親が心配で坂道を降りていきます。それが最後でした。三陸の人たちは、チリ地震津波の経験から、揺れたら高台へ避難するということが身に付いています。ただ、一旦、避難しても、津波到達まで余裕があると思い、家へと向かって命を落とした人が多くいました。津波警報が出たら、家族それぞれが、自分の命を守ることを優先するという約束をしておくべきなのでしょう。亡くなった職員が、遺体で発見されたのは、1ヶ月後のことでした。懸命な捜索が行われましたが、意外なことに、遺体は事務所の近くで発見されました。それほどガレキの処理に時間がかかったわけです。
一人の職員の家がある隣町の鵜住居にも行きました。釜石湾の一つ北に位置する入り江ですが、海岸線から2kmほどは、何も無くなっていました。緩やかな高台にある職員の家は無事でしたが、数十センチ低い隣の家は被災していました。三陸の入り江は、皆、地形が異なるので、津波の被害状況もそれぞれ異なっていました。場所によっては、海岸から4~5km奥の山中まで高い津波が到達しているところもありました。鵜住居の隣町は大槌です。大槌も、まったく何も無くなっていました。チリ地震津波の後に作った6.4mという防波堤があり、これがために安心していたのか、市長はじめ市の職員は高台に避難せず、市庁舎で命を落としました。行政機能を失った大槌の被害状況は伝わることもなく、救援も遅れました。2階建ての民宿の屋上に乗りあげた観光船、米軍が生存者を探した後につけるマークだけがガレキのなかで目につきました。
夜には、再び水沢に戻りました。翌日は、東北道から山形に入り、最上川沿いに酒田へ抜け、庄内空港から羽田に戻りました。震災に関する報道のなかで、マスコミが自粛したと思われるのが、遺体の映像であり、自殺、窃盗、強姦等に関するニュース、そして町の匂いを伝えることです。津波が運んだヘドロ等の強烈な匂いです。入浴や着替えもままならない状況のなか、人々も同じ匂いがしました。羽田に着いてみると、私も同じ匂いになっていました。マンションで、すぐに全ての衣服を洗濯しました。夜遅く、洗濯した衣類をたたみ始めると、妙に背中がゾクゾクします。三陸は寒かったので、風邪でもひいたかと思いましたが、ゾクゾクするのは背中だけです。私は霊感など全くないタイプですが、さすがにピンときました。衣類を全てまとめ、丁寧に合掌したうえで、ごみ置き場に持ち込み、再度、合掌したうえで捨てました。
その年、何度か、三陸に行きましたが、依然、行方不明者は多く、ガレキの処理には時間がかかり、仮設住宅の供給も遅れ気味でした。その後、所によっては、盛り土の工事も始まりました。正直、違和感を感じました。嵩上げは、議論と研究を重ねた末の合理的な計画なのでしょう。合理的ゆえ住民も賛成したのでしょう。しかし、住民が本当に望んでいたのは、住み慣れた町の復旧のはずです。残念ながら、それは最初から否定されているわけです。切ないジレンマです。これが本当に復旧・復興なのかと思いました。