南相馬に入ったのは、震災から1か月後でした。避難区域とされた原発から20km圏内にある2つの事務所の代替として、相馬に仮事務所を構えようと物件を探しました。それがようやく決着し、内装工事も行ったうえで開所日を迎えました。私も行きました。関東や東海地方も含め各地に避難していた従業員も集まってくれました。 一か月ぶりとなる、涙、涙の再会でした。支社長はじめ、何人かに挨拶してもらいましたが、皆、泣いてしまい、話も途切れがちになりました。震災後、できるだけ早く、皆で集まる機会を持つことは、とても大事だと思います。それは、中越地震での経験から学んだことです。人とのつながりを確認することが、普段の生活を取り戻そうとする力、復旧・復興への力の源になります。
南相馬の事務所へも行きました。相馬から南相馬に向かう道は、時折、原発関連と思われる車両が通るだけで、閑散としていました。地震の被害も、津波の被害もない町の中心部には人っ子一人見当たらず、時間が止まっているかのようでした。しかし、そこには、目に見えないだけで、放射線が漂っていたわけです。事務所の内部も、地震直後、皆が外へ飛び出した時のままになっていました。南相馬でも、津波警報が鳴り響き、皆、高台へと避難しました。ただ、津波の到達予測時間まで、多少の余裕があったので、一人の職員が自宅へと戻ります。そこへ津波が襲い掛かりました。命を落とした職員のデスクは、ちょっと離席しているだけのように見えました。
津波の被害は甚大なものでしたが、既に津波は去ったとも言えます。放射能汚染の問題は、終わりの見えない現在進行形の災害であり続けています。放射能汚染に対する不安は、日を追うごとに大きくなっていきました。羽田空港は、関西、あるいはさらに西へ避難するお金持ちでごった返していました。原発から100km圏内を立ち入り禁止とし、拠点を引き払った企業も少なからずありました。本社の災害対策本部でも、極端な意見を出す人たちがいました。根拠に乏しい不安が広がっていました。見えない恐怖ほど恐ろしいものはないのかも知れません。ある支社長が、福島県に隣接する町の事務所を閉鎖する、と連絡してきました。私は、町を捨て、お客さまを残し、従業員を置き去りにするつもりか、と怒鳴りました。従業員の安全をないがしろにするつもりはありません。ただ、皆が町から去り始めたとしても、我々保険会社は町を去る最後の会社であるべきだと思っていました。
事故から10年経つとは言え、廃炉作業もまだまだ先が長く、風評被害も完全には収まらない状況です。放射線レベルも下がり、膨大な資金を投入した除染が進んでも、帰宅する住民は少ないと聞きます。故郷へ戻りたいと思う気持ちは強くとも、放射能の恐怖は去らず、町はかつての町ではなく、避難も10年に及べば避難ではなくなります。事故後、原発に対する批判や抵抗は強くなる一方です。当然だろうと思います。しかし、将来の電力供給を考えれば、まだまだ原子力に頼ざるを得ないことも事実です。先々、炭素燃料や原発に頼らなくても済む時代が来るまでは、福島第一原発事故の教訓を活かし、安全性を高めつつ、少なくとも現存する原発は稼働させるしかないと思います。
南相馬から福島市に戻る際、やはり避難区域に指定されていた飯館村を通りました。なだらかな丘陵に農家が点在する様は、絵のように美しい光景でした。そして各農家の庭には満開の桜の木がありました。これこそが日本の原風景だと思いました。高台に車を止めてもらい、しばしその光景に見入りました。ただし、それは、まったく人の姿も気配もない、美しくも異様な里の姿でもありました。複雑な思いで桜を見ていると、私たちの方が、桜から見られているような気がしてきたことを覚えています。