2021年3月19日金曜日

平将門

中国から欧州まで、ユーラシア各国の歴史は、覇権を握る王朝が、別の系統に敗れ、新たな王朝が始まる、ということの繰り返しです。日本では、何故か、それは起こりませんでした。もちろん、天皇の後継者争いもあれば、南北朝時代もありましたが、それらは、あくまでも天皇家のお家騒動です。実権が武家に移行した後、覇権争いが続きましたが、天皇位を名乗る覇者はなく、天皇家は継承され続けました。欧米では、神が王権を授ける仕組みが採られました。実にうまいやり方です、日本では、天皇がその役割を担ってきたとも言えます。恐らく、大陸と違って、他国や他民族が陸続きに存在しなかったことで、王朝の変遷が起こりにくかったのでしょう。

例外に近い存在は、平将門だと思います。ただし、将門は、朝廷を滅ぼそうとしたのではなく、自ら”新皇”と名乗ることで、朝廷と対立しました。将門は、10世紀、桓武平氏の流れをくむ、いわゆる坂東平氏の家に生まれます。桓武天皇から数えて5代目、父の良将は、下総国を拠点とする鎮守府将軍でした。将門は、若くして都に上り、藤原忠平に仕えますが、立身出世は叶わず、20歳代後半で関東に戻ります。東国では、父の兄弟たちを中心とする争い、いわゆる「平将門の乱」の前哨戦が始まっていました。将門の乱の原因については、関係者も多く、やや複雑な面もあり、いまだに定説はないようですが、いずれにしても東国の覇権を争う戦いだったのでしょう。

平氏一門の戦いですが、将門と伯父たちの争いに、伯父たちの舅であった源護(みなもとのまもる)も参戦します。源護が朝廷に訴え出たために、将門は召喚され、都で裁きを受けています。また、将門も朝廷に訴え、伯父たちの追討令を得ています。さらに役人の讒訴も受けますが、これも無罪となっています。いずれにしても、将門は、朝廷を尊重していたと言えますし、朝廷もここまでの争乱は、坂東平氏の私闘と認識していたのでしょう。ところが、常磐国の豪族を匿ったことから、常磐国府と戦い、印綬を没収します。将門は、敵である従兄弟が常磐国府と結託していたことから、やむなく国府と戦ったと証言していますが、朝廷に刃向かったことに変わりありません。後戻りできなくなった将門は、関東の他の国府も攻め、新皇を称するに至ります。

将門には、当初から独立の意思などまったく無く、行きがかり上、国府の印綬を没収したことで、袋小路に入り込んでしまったのでしょう。朝廷は、討伐軍を差し向けます。940年2月、なぜか兵の大多数を解散させていた将門を、討伐軍が襲います。将門は奮戦するも、戦死。首は都へ運ばれ、獄門の刑に処されます。これが日本初のさらし首だったと言われます。同時期、伊予日振島を本拠地に大水軍を擁する藤原純友の乱も起こり、朝廷は恐れおののきます。将門・純友共謀説もあります。純友の乱は、都から下向された下級武士たちが、公家による搾取や横暴に耐えかねて兵を挙げており、将門の乱も、私闘から始まったとは言え、朝廷による地方行政の綻びが背景にあるのでしょう。朝廷にとっては、通り雨だったのかも知れませんが、侍の治世は、確実に姿を現しはじめていたとも言えます。

将門は、東国の民衆から支持されていたようです。災害に加え、公家たちによる搾取が、農民を苦しめていたからだとされます。将門の首塚にまつわる話をはじめ、多くの伝説が残されているのは、公家の横暴に対する民衆の反発の現れでもあるのでしょう。将門が、菅原道真、崇徳天皇とともに三大怨霊とされたのは、江戸期のことです。他の二人の憤怒とは異なり、将門の怨霊とは、苦しめられた東国の民衆の怒りと理解することもできます。我が家の初詣は、将門も祀られる神田明神と決まっています。よって成田山新勝寺への参拝は憚られます。新勝寺は、将門調伏を祈願すべく、朝廷の命を受けて開山されたからです。(写真出典:ja.wikipedia.org)

マクア渓谷