2021年3月23日火曜日

丸の内

三菱ヶ原
同じ三菱グループの人たちには、初めて会ったとしても、どことなく親近感を覚え、なにか遠い親戚に会ったような気になります。それもそのはず、知らない企業ではなく、共通の知人も多いからだと思います。これは他のグループでも、まったく同じだと思います。グループとは言え、独立した企業の集まりですが、グループとしての連携を保つ努力も様々行われてもいます。そうした組織、施設、あるいはアクティビティの他に、興味深いと思うのが、丸の内という存在です。江戸期には、武家屋敷が並んでいあたりですが、明治になると軍事演習用地として、ただの野原が広がっていたようです。これを三菱の2代目岩崎弥之助が払下げてもらいます。当時は、”三菱ヶ原”と呼ばれ、その様子を描いた作者不詳の油絵もあります。散々見せられた懐かしい絵でもあります。

弥之助は、三菱ヶ原をビジネス・センターにする構想を持っており、1894年、三菱一号館を皮切りに、二号館、三号館、東京商工会議所と赤煉瓦の洋風建築が建設され、「一丁倫敦」と呼ばれます。いわゆる三菱村の誕生です。以降、丸の内には、三菱の中核を成す三菱商事・三菱重工・三菱銀行はじめ、グループ各社の本社が置かれました。この地域的集中は、他のグループにはない特徴だと思います。これが排他性を高めることは無かったと思いますが、グループの親近感を高める効果はあったと思います。NYに駐在している時、三菱系の皆さんと食事をすると、よく丸の内の話が出ました。記憶しているのは、丸の内昼食ベスト・テン、そして三菱重工爆破事件です。

昼食ベスト・テンは、皆、好きな話題でした。良く名前が挙がったのは、竹葉亭の鯛茶漬け、鳥藤のミルク・ワンタン、福津留の南蛮、伊勢廣の焼き鳥お重、万世のパーコー・ラーメン、山水楼の焼きそばと肉まん、菊亭のかき揚げ、きくかわの鰻等々でした。一番になる確率が高かったのは、伊勢廣帝劇店の焼鳥お重でした。串が選べて、本数も増すことができます。私は、2本増しでいきます。かつて、若い人たちには、課長級で1本増し、2本増しは部長になってから、と言っていました。丸の内にしか無いものとしては、ミルク・ワンタンと南蛮でしょう。ミルク・ワンタンは、聞けば驚きますが、食べると納得できます。南蛮は、既にオリジナルの味ではありませんが、鶏肉と玉ねぎを辛いスープで煮たものです。アルミ・ホイルに入れて調理し、そのまま出されます。辛いのとアルミ・ホイルの形が南蛮船に似ていることから南蛮と呼ばれます。それぞれ社員食堂はあったものの、外で食べる人も多く、丸の内仲通りの昼時は、いつも結構な人通りがありました。

その昼時の仲通りが地獄に変わった日がありました。三菱重工爆破事件は、1974年8月30日の昼時に発生しました。東アジア反日武装戦線「狼」による企業を標的とした一連の無差別爆弾テロの一つでした。丸の内仲通りに面したビルが破損し、ちょうど昼食時で込み合っていた仲通りには、ガラスの雨が降りました。結果、8人が死亡、376人が負傷しました。地下鉄サリン事件が発生するまでは、日本史上最悪のテロでした。私は入社前でしたが、その日を経験した先輩たちは、あの時、どこにいたか、から始まり、延々と話していました。仲通りの地獄絵図もさることながら、各社の皆さんが、総出でケガ人の救援にあったことも忘れ得ぬ記憶だったようです。共通の体験は、人々の結束を高める効果があります。ましてや新宿まで聞こえたと言う爆発音やガラスが降ってくるという経験ならば、なおのことでしょう。

昔は、よく休日出勤をしていました。休日の仲通りは、閑散としており、それはそれで好きでした。それが、今や、休日の方が人出が多いという街に変わりました。三菱地所による通称”丸の内マンハッタン計画”は、丸ビルの建て替えから始まったと記憶します。1923年建造の旧丸ビルの地下からは、基礎に使われた松の杭が5,400本以上出てきたと言います。三菱ヶ原は湿地帯だったので、水に強い松が使われたわけです。驚くべきことに、松杭は、建造時の状態をそのまま保っていたそうです。一部は、丸ビル36階の”招福楼”の内装にも使われ、1階オフィス入口では、そのままの姿を見ることもできます。(写真出典:jaa2100.org)

マクア渓谷