2021年3月15日月曜日

1時間の王さま

「1時間の王さま」とは、今から50年近くまえ、札幌市の理容組合が作ったキャッチ・コピーです。ポスターに仕立て、各理髪店に張り出していました。その頃、若者の間では、長髪が大流行して、理髪店の利用者が減っていました。床屋での1時間は、髪を切ってもらい、シャンプーをしてもらい、顔を剃ってもらい、マッサージしてもらい、と至れり尽くせり。王さま気分が味わえますよ、と言いたかったのでしょう。言われてみれば、確かにその通り、なかなかいいコピーです。ただ、それで若者が理髪店に戻るとは、まったく思えませんでしたが。

理髪店は、法的には理容店となるようです。ただ、口語では床屋という言い方が一般的です。いずれも意味は同じです。それにしても”床屋”とは妙な言葉です。それには、ちゃんとした謂れがありました。そもそも、人間は、大昔から、髪を切ったり、髭を剃ったりしていたわけですが、業としての理容が、いつ始まったかははっきりしません。少なくとも古代ローマには存在していたようです。欧州に比べ、日本における理容業の始まりは遅く、鎌倉時代、下関の采女之亮政之が、朝鮮の新羅人から習った技術をもとに、髪結所を開き、大繫盛します。店の奥に床の間があったことから、床の間のある店が転じて床屋と呼ばれるようになり、今に至るわけです。

床屋は、室町後期から広がりを見せたようです。その背景には丁髷(ちょんまげ)の流行がありました。どう考えても奇天烈な髪型である丁髷は、戦国時代、武士の間に広がります。兜を着用すると、蒸れてくるため、生え際から頭頂部を剃り上げる「月代(さかやき)」が流行したようです。満州族の辮髪も、同じ理由から始まったようです。平時には、側頭部と後頭部の髪をまとめて結ぶ、いわゆる丁髷を結っていました。これが一般庶民にも広がります。武士にとっては必要に迫られた髪型として理解できますが、兜をかぶることもない庶民の間に、なぜ、このように奇妙で手間のかかる髪型が広まったのかは、よく分かりません。支配階級へのあこがれだったのでしょうか。

身の回りの世話をしてくれる従僕のいない庶民は、定期的に月代を剃るために、髪結いを利用することになります。常設店舗である床屋の料金は、髭を剃り、眉を整え、耳掃除等も含めて、280文。現在価値にすると3~4千円だったようです。今と、あまり変わりません。1人の理容師が、1人の客に、1時間程度時間をかける、という労働のあり方、そしてニーズにも大きな変化がない以上、同程度の料金なのでしょう。江戸期の床屋は、将棋盤や本なども置いてあり、若者のたまり場となっていたようです。落語の「浮世床」は、その様子を語っています。明治の世になると、1871年に散髪脱刀令が太政官から発出されます。断髪令とも言われますが、実際には、髪型は自由にしてよい、という法律です。洋式軍制化が進み、兵士のなかで断髪することが一般化したために発出されたそうです。

断髪令が出されたにもかかわらず、力士だけは、今も丁髷を結っています。これも、実に不思議な話です。どうやら、相撲好きだった明治天皇に、伊藤博文らが忖度し、相撲は国技であるされ、あえて洋風化させなかったということのようです。ちなみに、江戸期の相撲の行事は裃(かみしも)を着用していたようですが、相撲は神事ゆえ、直垂・烏帽子を着用せよ、という政府の指示があったようです。相撲好きの天皇に忖度するばかりではなく、天皇を神格化して国を統一を図るという薩長の政策浸透にも使われた、ということなのでしょう。(写真出典:pinterest.jp)

マクア渓谷