2022年5月3日火曜日

婆娑羅

高師直
浄瑠璃や歌舞伎は、実際に起きた事件を題材とした作品が多くあります。その際、実名を使ってはならぬ、という幕府のお達しがありました。そこで、題名や役名には、様々な工夫がされることになります。例えば、赤穂浪士の討ち入りを題材とする「仮名手本忠臣蔵」は、太平記の枠組みを借りて、室町時代の話にされています。”仮名手本”とは仮名47文字から討ち入りした赤穂浪士四十七士を想起させる工夫です。殿中で刃傷沙汰に及ぶ”塩冶判官”は、太平記に登場する塩冶高貞を借り、塩の産地である赤穂の藩主浅野内匠頭を思わせるという仕掛けです。一方、敵の吉良上野介は”高武蔵守師直(こうのむさしのかみもろのう)” という役名になっていますが、これは太平記きっての悪者である高師直(こうのもろなお)を借用しています。

浅野内匠頭による刃傷沙汰の原因については、当人が即刻切腹となったこと、吉良上野介が、身に覚えがない、の一点張りだったことから、不明とされています。ただ、巷間、内匠頭の賄賂が少なかったことから、上野介が陰湿ないじめを行ったからだとされています。仮名手本忠臣蔵では、高武蔵守師直が塩冶判官の妻に横恋慕し、すげなくされたので塩冶判官をいじめたということになっています。実は、この話も太平記を借りています。塩冶高貞の妻が絶世の美女であることを聞き及んだ高師直は、湯浴中の妻をのぞき見し、情欲をかき立てられます。当時、幕府中枢で権勢を振るっていた高師直は、強引に妻に迫りますが、頑なに拒絶されます。怒った師直は、塩冶高貞に謀反の疑いありとして、軍勢を差し向け、自害させます。塩冶高貞が、謀反の疑いで滅ぼされたのは事実です。ただ、謀反の真偽は不明であり、師直の横恋慕は創作とされています。

高師直、正式には高階師直ですが、室町幕府執事(後の管領)として、足利尊氏に仕えました。高階家は、長屋王の子孫であり、源義家につながる源氏の名門でした。早くから清和源氏系の足利家に仕えた家です。高師直は、戦場にあっては類い希なる才能を発揮する武将であり、執事としては、革新的な政策を実行し、足利尊氏を支えました。また、歌人としても知られています。室町幕府成立後、足利尊氏と、尊氏が政務を任せた弟の直義との間に亀裂が入ると、高師直は尊氏派の中心となって直義と争うことになります。直義を出家引退させ、実権を握った高師直でしたが、南朝に寝返った直義に破れ、一族もろとも惨殺されています。戦乱続く時代の武将の一人ですが、なぜ太平記は、高師直を極悪人として描いたのでしょうか。実に興味深い疑問だと思います。

戦が上手に過ぎた、権力を独占した、あるいは合理主義者であったことから妬みや恨みをかったとも言われます。しかし、嫌われた最大の理由は、石清水八幡宮と吉野行宮を焼き討ちしたことだという説があります。もちろん、寺社を焼き討ちした例は過去にもあります。有名なところでは、12世紀の平重衡による南都焼討があります。仏罰が恐れられていた時代にあっては、あってはならないことであり、平家はその仏罰を受けたとも言われます。室町幕府軍は、石清水八幡宮焼討の前にも、後醍醐天皇が立てこもる笠置寺に火を放っています。ただ、いかに戦術上の必要性があったとは言え、高師直が焼き討ちした石清水八幡宮は清和源氏足利家の氏神であり、吉野行宮は、いわば皇居でした。主君や天皇を恐れぬ蛮行と見られてもやむを得なかったと言えます。

朱子学を背景に持つ太平記の視点からすれば、骨肉の争い、下剋上、讒言、無節操な合従連衡、さらには天皇をないがしろにする風潮等、乱れに乱れた時代の象徴が婆娑羅であり、婆娑羅こそ諸悪の根源だったのでしょう。その代表が高師直というわけです。ですから、悪人としての高師直というよりも、婆娑羅という現象を擬人化したものが高師直だったと考えるべきなのでしょう。派手好きで、常識外れとされる婆娑羅ですが、一面、時代の精神を反映しており、時代を先導していたとも言えます。革命児は言い過ぎでしょうが、時代を加速させた新世代だったと言えるのではないでしょうか。高師直や婆娑羅は、1960年代にカウンター・カルチャーを爆発させた若者たちにダブるところがあります。(写真出典:ja.wikipedia.org)

マクア渓谷