2022年5月15日日曜日

出現

「出現」
芸術の都パリには多くの美術館があります。ただ、多くの人はルーブル、オルセー、ポンピドゥー・センターで満腹となり、他の美術館までは足が延びません。ルーブルだけでも、まともに見るなら数日を要するわけで、パリは何度も行くべき街ということになります。地下鉄のピガール駅を降りて、ラ・ロシュフーコー街の坂道を登ると、象徴主義を代表するギュスターブ・モローの美術館があります。1903年、モローの遺言に基づき、住宅兼アトリエを美術館としてオープンしています。世界初の個人美術館でもあります。内部は、モダンに改装するのではなく、当時のまま残されています。晩年、ここに引きこもって幻想的な作品を描き続けたギュスターブ・モローの世界を体感することができます。そういう意味では、もはや美術館以上の存在だとも思います。

1826年、パリに生まれたギュスターブ・モローは、エコール・デ・ボザール(国立高等美術学校)に学び、テオドール・シャセリオーに師事しています。シャセリオーは、新古典派にロマン派の要素を入れたとされます。モローの新古典派から象徴主義へという展開は、シャセリオーの影響もあるのでしょう。当時は、神話や歴史を描く新古典派が、アカデミーとして画壇を支配し、サロン入選が画家への道とされていた時代です。それに反旗を翻したのが自然や日常を描く印象派の画家たちでした。権威主義に陥った新古典派は、内外から揺さぶられていたとも言えるのでしょう。また、1892年に、エコール・デ・ボザールの教授となったモローが、学生であったアンリ・マティスとジョルジュ・ルオーを庇護したことはよく知られています。後にフォビズムを築く二人は、モローの死後、学校から放逐されています。

19世紀後半に起こった象徴主義を一言で定義することは難しいものがあります。内面的なものに形を与えると言っても、すべてをカバーすることはできず、むしろ”自然主義への反発から生まれた”と言った方がわかりやすいかも知れません。産業と科学の時代への人文的反発という面があります。象徴主義は、フランス文学から始まります。ボードレール、マラルメ、そしてポール・ヴェルレーヌ、あるいはユイスマンスへと続きます。象徴主義は、他の分野へも波及し、音楽では、ワーグナー、ドビッシー、サティ等が良く知られています。絵画では、英国のラファエル前派、後のビアズリーもいますが、やはり代表格としては、ギュスターブ・モローということになります。象徴主義は、表現者によって、ロマン主義的、耽美的、宗教的、エキゾチシズム、悪魔崇拝など、実に多彩な傾向を包含しています。

モローの代表作の一つとされるのが「オイディプスとスフィンクス」(1864)です。大いに物議を醸したようですが、既に後の象徴主義的作品群につながる傾向が現われていると思います。象徴主義の代表としてのモローの名を決定的にしたのが「サロメ」シリーズであり、特に「出現」は絵画史に残る傑作だと思います。欧州における”ファム・ファタール(運命の女、魔性の女)”のイメージを決定づけた作品とも言われます。様式美、装飾性、エキゾチシズム、耽美性など、モロー独自の幻想的世界が集約されています。欧州文化は、その本質的において、ロマンティシズムやデカダンスを内包していると思います。「出現」は欧州文化がたどり着いた究極の姿の一つとも考えられます。「出現」は、その後の象徴主義、世紀末芸術に大きな影響を与えたとされます。また、アンドレ・ブルトンは、モローをシュールレアリスムの先駆者とまで言っています。

ギュスターブ・モローには、永年連れ添ったパートナーがいました。モデルのアレクサンドリン・ドゥリューです。1890年、彼女が亡くなると、モローは塞ぎ込み、作品は、一層メランコリックなものになったとされます。ドゥリューの写真やモローが書いたスケッチが残されています。サロメはじめ、モローが描く女性のモデルがドゥリューであったことが良く分かります。特に、ドゥリューの眼差しは特徴的であり、印象深いものがあります。目の前の現実ではなく、どこか遠くの世界を見ているような目に、モローは強く惹かれたのではないかと思えます。モローにとって、アレクサンドリン・ドゥリューは単なるモデルではなく、ミューズそのものであり、ファム・ファタールだったのでしょう。(写真出典:musey.net)

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