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白鵬の太刀 |
力士が生業として成立するのは江戸期からと言われます。定期的な興業も打たれ、また大名が力士を召し抱え、藩の威信を示すこともありました。お抱え力士は、武士と同じ扱いをされ、実力のある力士は帯刀も許されます。勧進相撲が定着した1789年、相撲宗家の吉田司家は、人気力士に綱をつけ土俵入りさせることを思いつきます。最初に横綱免許を与えられたの二代目谷風、小野川の両力士です。1791年、将軍上覧相撲において、両横綱は、露払い、太刀持ちを従え、土俵入りを披露しました。今に続く横綱土俵入りの始まりです。なお、相撲協会の公式記録としては、谷風・小野川の前に、明石、綾川、丸山という3人の横綱がいますが、記録が曖昧であり、明石、綾川に至っては、実在すら疑問視されています。
その後、40年近く横綱は生まれていませんでしたが、1823年、司家を名乗っていた五条家が、横綱免許を柏戸・玉垣に与えます。面目を潰された吉田司家は、宗家としての地位を守るために奔走し、1828年、現在に続く横綱制度を誕生させます。新制度第1号の横綱には阿武松が選ばれています。なお、柏戸・玉垣は、今も正式な横綱としては認定されていません。この空白期間中に、史上最強と言われる信州出身の大関・雷電為右衛門が活躍しています。身長197cm、体重169kg、当時としては異例の大男です。年2場所制だった江戸本場所における生涯成績は254勝10敗。いまだ勝率としては歴代最高であり、まさに無敵の強さでした。にも関わらず、横綱免許は与えられていません。その理由には諸説あります。
強すぎたからという説、あるいは強すぎることを自覚しており、辞退したという説などは人気があります。実際、強すぎたので、張り手を禁じられてもいたようです。また、まことしやかに言われるのが、雷電を召し抱える松江藩の松平家と、吉田司家が仕える熊本藩の細川家の不仲説です。いずれにしても、問題だと思うのは、どの説も、天下無双の雷電が、なぜ力士の最高ランクに格付けられていないのか、という疑問から出発している点です。当時の最高ランクは、あくまでも大関であり、雷電も大関に格付けられています。谷風・小野川の横綱、あるいは横綱土俵入りは、いわば興業上の演出だったと言ってもいいのでしょう。従って、雷電が横綱でなかった理由は、横綱制度が無かったから、ということになります。
もし、1828年の制度化以降に雷電が活躍していれば、間違いなく横綱だったはずです。残念ながら、雷電が引退したのは1811年でした。当時44歳、とうに盛りを過ぎていたようです。ちなみに、雷電の太刀と脇差も残されています。太刀の銘は”武蔵太郎安国”、脇差は”三品難波介直格”と銘されています。いずれも江戸中期の名工だそうです。太刀の銘も、雷電為右衛門の偉大さを伝えているように思います。なお、雷電以降、信州出身の三役以上力士は1人しか出ていませんでした。ただ、ここへ来て、御嶽海が活躍し、大関に昇進しました。信州出身の大関は、実に230年ぶりという快挙です。国技館では、毎場所、御嶽海を応援するタオルが多く見られます。信州の人たちの興奮が伝わります。御嶽海の太刀が鍛刀される日を期待したいものです。(写真出典:sankei.com)