2022年5月23日月曜日

横綱の太刀

白鵬の太刀
コロナ感染拡大の影響から、国技館の相撲博物館は、しばらく休館していました。2022年夏場所を機に再開され、第69代横綱白鵬を特集していました。白鵬の半生をたどる写真、豪華な化粧まわし、さらには父親がメキシコ五輪のレスリングで獲得した銀メダルまで展示されていました。なかでも、驚いたのは、土俵入りに用いた太刀です。横綱の太刀は、横綱誕生とともに、当代最高峰の刀匠によって、新たに鍛刀されるとのこと。知りませんでした。白鵬が初打ちに臨む写真も展示されていました。土俵入りの際に、太刀持ちが持っているのは、”拵(こしらえ)”と呼ばれる外側だけであり、刀身は横綱本人が保管しているものだそうです。

力士が生業として成立するのは江戸期からと言われます。定期的な興業も打たれ、また大名が力士を召し抱え、藩の威信を示すこともありました。お抱え力士は、武士と同じ扱いをされ、実力のある力士は帯刀も許されます。勧進相撲が定着した1789年、相撲宗家の吉田司家は、人気力士に綱をつけ土俵入りさせることを思いつきます。最初に横綱免許を与えられたの二代目谷風、小野川の両力士です。1791年、将軍上覧相撲において、両横綱は、露払い、太刀持ちを従え、土俵入りを披露しました。今に続く横綱土俵入りの始まりです。なお、相撲協会の公式記録としては、谷風・小野川の前に、明石、綾川、丸山という3人の横綱がいますが、記録が曖昧であり、明石、綾川に至っては、実在すら疑問視されています。

その後、40年近く横綱は生まれていませんでしたが、1823年、司家を名乗っていた五条家が、横綱免許を柏戸・玉垣に与えます。面目を潰された吉田司家は、宗家としての地位を守るために奔走し、1828年、現在に続く横綱制度を誕生させます。新制度第1号の横綱には阿武松が選ばれています。なお、柏戸・玉垣は、今も正式な横綱としては認定されていません。この空白期間中に、史上最強と言われる信州出身の大関・雷電為右衛門が活躍しています。身長197cm、体重169kg、当時としては異例の大男です。年2場所制だった江戸本場所における生涯成績は254勝10敗。いまだ勝率としては歴代最高であり、まさに無敵の強さでした。にも関わらず、横綱免許は与えられていません。その理由には諸説あります。

強すぎたからという説、あるいは強すぎることを自覚しており、辞退したという説などは人気があります。実際、強すぎたので、張り手を禁じられてもいたようです。また、まことしやかに言われるのが、雷電を召し抱える松江藩の松平家と、吉田司家が仕える熊本藩の細川家の不仲説です。いずれにしても、問題だと思うのは、どの説も、天下無双の雷電が、なぜ力士の最高ランクに格付けられていないのか、という疑問から出発している点です。当時の最高ランクは、あくまでも大関であり、雷電も大関に格付けられています。谷風・小野川の横綱、あるいは横綱土俵入りは、いわば興業上の演出だったと言ってもいいのでしょう。従って、雷電が横綱でなかった理由は、横綱制度が無かったから、ということになります。

もし、1828年の制度化以降に雷電が活躍していれば、間違いなく横綱だったはずです。残念ながら、雷電が引退したのは1811年でした。当時44歳、とうに盛りを過ぎていたようです。ちなみに、雷電の太刀と脇差も残されています。太刀の銘は”武蔵太郎安国”、脇差は”三品難波介直格”と銘されています。いずれも江戸中期の名工だそうです。太刀の銘も、雷電為右衛門の偉大さを伝えているように思います。なお、雷電以降、信州出身の三役以上力士は1人しか出ていませんでした。ただ、ここへ来て、御嶽海が活躍し、大関に昇進しました。信州出身の大関は、実に230年ぶりという快挙です。国技館では、毎場所、御嶽海を応援するタオルが多く見られます。信州の人たちの興奮が伝わります。御嶽海の太刀が鍛刀される日を期待したいものです。(写真出典:sankei.com)

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