2022年5月17日火曜日

法華一揆

日像上人
1932年に発生した五・一五事件は、政党政治に終わりを告げ、軍国主義が始まる契機となりました。海軍青年将校が起こしたテロ事件ですが、その背後には、国粋主義者の大川周明と井上日召がいました。井上日召は、日蓮宗の僧侶ですが、一人一殺主義で知られる血盟団を組織し、1932年2月には前蔵相の井上準之助、3月には三井の総帥だった団琢磨を殺害しています。血盟団のテロが、五・一五事件の引き金となりました。日蓮宗は、しばしば政治に関与していく傾向を持ちます。同時に、日蓮宗は、政治的に利用される傾向もあるように思います。末法の時代にあって、国と国民を救済できる唯一無二の存在が法華経であるとする日蓮宗は、他宗派や国家体制を激しく批判するという一面があるからです。一神教の原理主義者に近いようにも思えます。

比叡山延暦寺の迫害を受けた浄土真宗の蓮如は、越前に吉崎御坊を開き、多くの信者を集めます。その後、勢力を拡大した一向宗(浄土真宗)の信者は、一向一揆によって、加賀国を自治国家として百年治めました。同じ頃、日蓮宗も、約5年間に渡り、京都を支配しています。法華一揆と呼ばれます。一向一揆、あるいは本願寺は、戦乱の世にあって、大名以上の勢力を持ち、その影響力の大きさは歴史に名を留めています。それに比べ、5年間とは言え、都を自治運営した法華一揆は、さほど知られていません。その大きな理由は、期間の短さではないように思います。法華一揆は、日蓮宗徒が、その教義に基づき、権力と戦い、京都の自治権を奪取したということではありません。京に迫る一向一揆を防ぐために、室町幕府の実権を握っていた細川晴元によって利用されたという側面が大きく、歴史上の扱いも小さくなっているのではないでしょうか。

京都に日蓮宗を布教したのは日蓮の弟子である日像です。下総国で生まれた日像は、日蓮の弟子であった兄日朗に師事し、後に身延山で日蓮の弟子となります。日蓮入滅後、その遺志を継いで、京都布教を決意します。日蓮の足跡をたどって、佐渡、北陸と布教を続け、1294年、京都に入り、布教活動を開始します。日蓮宗の排他的な性格からして、他宗派による激しい弾圧を受けます。佐渡配流、紀伊流罪、洛内追放と3度に渡る迫害にも負けず、1321年には、後醍醐天皇の許しを得て、布教の拠点としての妙顕寺を創建しています。いわば東国の新興宗教に過ぎなかった日蓮宗が、朝廷、のちには幕府の公認を得ることになったわけです。以降、日蓮宗は、町衆を中心に信仰を集め、16世紀には、洛中法華21ヶ寺と呼ばれる由緒寺院を構えるまでになります。

当時の京都は、”題目の巷”とも呼ばれたようです。題目とは、日蓮宗の”南無妙法蓮華経”を指します。とは言え、延暦寺等からの迫害は続き、日蓮宗徒は武装することになります。同じ頃、細川高国を破り幕府の実権を握った細川晴元は、臣下であった三好元長と争います。晴元勢は、本願寺に頼み込んで一向一揆を起こさせ、三好元長を討ち取ります。ところが一向一揆の勢いは止まらず、京を窺うまでになります。晴元は、1532年、京の法華宗(日蓮宗)をそそのかし、日蓮宗が邪教と批判する一向宗の山科本願寺を焼き討ちさせます。今度は、法華宗の勢いが止まらず、京の町を支配するに至ります。1536年、増長する法華宗は比叡山に宗教問答をけしかけます。上総国茂原の法華宗信徒に比叡山の僧が論破され、面目を失った比叡山は、近江の六角定頼の助けを得て、洛中法華21ヶ寺を焼き討ちします。その際、京都の大部分が焼失し、その規模は応仁の乱を上回ったと言います。これが天文法華の乱です。

法難という言葉は、一般的には仏教に対する迫害や弾圧を指します。よらず新しい宗教は、時の権力や権力と結びついた旧宗教から攻撃されます。三大一神教の預言者たちも、皆、厳しい迫害を受けています。日蓮も同様です。その排他性ゆえに攻撃されることの多かった日蓮の四大法難は有名です。日蓮宗では、教義の正当性、帰依が生み出す力の証明、あるいは宗徒の団結等の象徴として、特に法難を重視する傾向があります。宗教は、迫害によって力を増していくという傾向があります。洛中法華21ヶ寺焼討は、日蓮宗にとっての法難の一つなのでしょうが、日蓮四大法難とは、随分、趣きが異なるように思います。(写真出典:kosaiji.org)

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