2022年5月8日日曜日

きんつば

あんこに興味の無かった私が、あんこ好きに変わったきっかけの一つは、金沢は中田屋のきんつばです。25年ほど前のことだったと思います。様々な条件も重なったのかも知れませんが、お土産にいただいた中田屋のきんつばが、とても美味しいと思い、すっかりあんこ党になりました。今でも、私の中で、中田屋はきんつば界の頂点に立っています。中田屋は、1934年、中田憲龍によって創業されました。中田屋の龍のロゴは、中田憲龍が、自分の名前にちなんで、自らデザインしたものだそうです。いつの頃からか、金沢と言えば中田屋のきんつば、きんつばと言えば金沢の中田屋と言われるまでになりました。決して甘すぎず、上品なのに、味わい深いあんこは絶品です。

餃子や肉まんの中身は、餡と呼ばれます。餡(あん)とは、詰め物という意味です。7世紀の初め、遣隋使が持ち帰った食文化の一つです。中国では肉類が多かったようですが、日本では精進料理として野菜類を煮詰めて包むものが中心となります。小豆を甘く煮詰めれば、”あんこ”になります。小豆は、稲と同じ頃に渡来したと言われます。赤いことから魔除けとして珍重されたようですが、その名残は赤飯に認められます。小豆は、当初、塩で煮られていたようですが、甘葛を使って甘く煮たものも登場します。室町期には、砂糖を使うようになり、江戸期になると、それが一般化します。世界各地にも似たような料理が存在します。例えば、ひよこ豆で作る中東のフムスなどもあんこの一種と言えます。インゲン豆等で作るのが白あんですから、フムスを砂糖で煮れば白あんが出来るのでしょう。

きんつばの起源は、江戸期の京都で作られた”銀鍔”だとされます。上新粉で作った生地にあんこを包んで焼いたものだったそうです。丸い形が、刀の鍔に似ていたことから名付けられました。白い見た目から”銀”とされたのでしょう。それが江戸へと伝わると、米粉は小麦粉に変わり、名称も金の方が縁起が良いと言うことで”金鍔”になります。当時は、屋台で焼きながら売っていたようです。現代のきんつばは、あんこに寒天を混ぜて四角く成形し、小麦粉で作った極薄の衣をつけて焼いたものです。これは、1897年に、神戸の高砂屋、現在の本高砂屋が”高砂きんつば”として初めて発売しています。四角くなったことで、工程は簡素化され、大量に作ることが可能となりました。甘くて、手に持ち易い高砂きんつばは、神戸の港湾労働者の間で大ヒットしたようです。

かつて、きんつばと言えば、店頭で焼きながら販売されおり、日持ちもしないものでした。近年、店頭焼きは、デパ地下の実演販売くらいでしかお目にかかりません。紀尾井町のガーデンテラスでは、滋賀の叶匠壽庵が実演販売していたようですが、今はやっていません。きんつばの味を左右するのは、主にあんこの出来なのでしょうが、寒天の比率や衣の薄さも影響します。単なる印象ですが、関西のきんつばは、衣が厚めなものが多いように思います。中田屋は薄めです。中田屋は、衣に限らず、すべてのバランスが良いと思います。東京では、日本橋の”榮太樓總本鋪”のきんつばが有名です。こちらは、江戸の伝統を引き継ぎ、丸形です。芋きんつば、かぼちゃきんつば、あるいは各種フレーバーを入れたものもあります。それぞれ美味しいとは思いますが、やはりきんつばとは別物だと思います。

面白いと思ったのは、門前仲町の深川不動尊前にある”深川華”のきんつばです。甘くないきんつばです。最初に食べた時は、何かの間違いかと思いました。ところが、甘みと塩味の加減が良く、小豆のうま味が引き立っているように思います。珍しいので、よく手土産に使いました。恐らく、キリッとした味わいを好む深川風ということなのでしょうが、砂糖が貴重だった頃のあんこを思わせるところもあります。(写真出典:mapple.net)

マクア渓谷