民意なきところに国は立たず
宮城谷昌光の「晏子」に出てきた言葉です。晏嬰を描く小説ですが、これは晏嬰が残した言葉ではなく、 宮城谷昌光の名文です。「晏子春秋」や「史記」で伝えられる晏嬰の政治思想を端的に表す言葉だと思います。晏嬰(あんえい)は、紀元前6世紀、春秋戦国時代に活躍した斉の名宰相。司馬遷は、「史記」の「管晏列伝」のなかで、同じく斉の宰相だった管仲とともに、晏嬰を絶賛し、「晏嬰の御者になりたい」とまで語っています。晏嬰の父である晏弱は、宋の公子でありながら、争いの絶えない宋を離れ、斉へ亡命した人。晏弱は、自分を受け入れてくれた斉への忠心厚く、軍事の天才を発揮します。その子晏嬰は、ひ弱に生まれ、成人しても身長は135mに満たなかったと言われます。ただ、その清廉潔白さや気骨は、身の丈を優に超えるものがあったということです。父が没すると、当時、既に稀であった正式な服喪の礼に則り、三年間、粗末な衣服で、粗末な仮小屋に住み、粗末な食事をし、人々を驚かせたと言います。
晏嬰は、哲学者ではなく、あくまでも三代の斉公に仕えた政治家です。その信条とするところは、民を安んじ、隣国と友好をはかり、社稷(国)を永らえることです。晏嬰にとって、民と社稷は、斉公を超える存在です。その観点からすれば、斉公に諫言することは、政治家としての当然の務めであり、諫言するからには自らの襟も正して当然、ということになります。事実、晏嬰は、極端なまでに節倹力行・儀礼尊重の人だったようです。斉公からの過度な恩賞は全て辞退し、ある時は、晏嬰を気遣って公が増築してくれた自宅を、わざわざ元に戻したとされます。
「晏子春秋」は、後代、晏嬰の言行をまとめた書物ですが、その大半を占めるのが、斉公に対して行った諫言の数々です。晏嬰の諫言から多くの成句が生まれていますが、最も有名なものの一つが、「牛首馬肉」。後に「羊頭狗肉」という言葉になりました。宮中の女性が男装することを霊公が好むと、それが街中で大流行します。霊公は、風俗が乱れるとして、街での男装を厳しく禁じますが、一向に止みません。霊公は、晏嬰に、何故止まないのか、と問います。晏嬰は、宮中で許し、街で禁じることは、牛の頭を看板に掲げて、馬肉を売るようなもの。まず宮中から正しなさい、と諫言します。
「晏子春秋」のなかに、賢人の誉れ高い普の叔向と、乱世における政治家の処し方を語る章があります。叔向は「正道を貫けば、地位を失い、民を捨てることになる。世の流れにそって邪道を行えば、地位は守れるが、正道を捨てることになる。どうするべきか?」と問います。晏嬰は「民のためにということを根本に置けば、正道を捨てることはなく、民を捨てれば、正道などあり得ない」と明解に答えています。是非とも、永田町界隈や大手町あたりで、「晏子春秋」の読書会を開催してもらいたいものです。(写真出典:shisokuyubi.com)