田中一村は、1908年、現在の栃木市で彫刻家の父のもとに生まれています。幼少時から、南画に長け、神童と呼ばれたそうです。確かに、少年が描いたとも思えない、実に老成した南画風の絵が残っています。南宋画に影響を受けた南画は、江戸後期に生まれ、池大雅や与謝蕪村等が大成し、大流行しました。しかし、明治以降、フェノロサや岡倉天心から「つくね芋山水」と蔑称され、廃れます。昔の家には、二束三文の南画が、必ず何枚かあったものです。大流行したのは、床の間等の掛け軸として、重宝されたからだと思います。一村少年は、米邨と号し、画伯とまで呼ばれ、うまいこと商売に使われたような節があります。
一村は、東京美術学校(現芸大)日本画科に入学しますが、父の病気のために数か月で退学しています。ちなみに、同期には東山魁夷や橋本明治等がいます。家の生計を助けるために、清の呉昌碩らを真似た南画を描き、売っていたようです。20歳を過ぎると、日本画への挑戦が始まります。いわば商売であった南画を捨て、本格的に日本画を目指したわけです。もともとの画力、センスの良さから評価もされますが、独学ゆえの限界か、鳴かず飛ばずが続き、南画時代の贔屓も離れていきます。
30歳になると、親戚を頼って、現在の千葉市に移り、試行錯誤の時代が始まります。今回の展示は、この時代のものが中心で、力作もありますが、多くは多様な作風、作画を試しているもののように見えます。農村の薄暮を描いた色紙何点かは、見事な出来だと思いました。公募展での入選は、わずかに2点のみ、40歳以降は落選が続きます。皮肉なことに、当時の日展審査員には、東京美術学校の同期たちが名を連ねています。悔しかったはずです。50歳のおり、中央画壇に見切りをつけた一村は、奄美へと単身渡ります。千葉での20年は、彼にとっての芸大であり、千葉の自然に師事した修行時代だったとも言えるのでしょう。
奄美への移住をもって日本のゴーギャンと言われる一村ですが、奄美で確立した画風はアンリ・ルソー的だと思います。細密な描写は、画題こそ違うものの、若冲に通じるものがあります。「アダンの海辺」の浜辺と海の描写には舌を巻きます。不思議なことに、この名作には落款がありません。描きあげた時には精魂尽き果て、落款を付す力も残っていなかった、と一村は覚書に書いています。20歳までは売るために絵を描かされ、50歳までは独学で腕を磨き、69歳までは到達した孤高の境地を人知れず描く。なんという人生なのでしょう。(写真出典:bijutsutecho.com)