2021年1月17日日曜日

映像の限界

ギザでクフ王のピラミッドを初めて見た時の興奮は忘れません。もちろん、ピラミッドの画像や映像をさんざん見ていたにもかかわらず、やはりその量感にはたまげるわけです。映像は、白黒からカラーへと進化し、リアルさを増しましたが、二次元という制約がありました。3DあるいはARへと進み、かつより精緻な再現機能を持てば、現実と変わらぬまでになるのかも知れません。ただ、科学的なことはよく分かりませんが、人間の頭脳は、形や色だけでなく、奥行きや空気感はじめ、五感を通して得られる様々な情報を瞬時に処理し、感覚的な量感や質感を得ます。それを機械で再現することは、理論上可能だとしても、実現には随分時間がかかるように思います。

コロナ禍のなかで、音楽のライブ・ストリーミングが増え、私も、いくつか視聴しました。カメラ・ワークやツイートの挿入や、様々工夫も凝らしていました。それなりに楽しめましたが、ライブとはまるで異なる代物であることは間違いありません。一番良かったストリーミングは、観客を入れた会場からのストリーミングでした。多少なりともライブ感を感じることができたからです。もっとも、仲間たちと、酒でも飲みながら、ストリーミングを視聴すれば、随分違ったものになったかもしれません。スポーツのパブリック・ビューイングも同じ感じなのでしょう。

音楽に限らず、舞台芸術やスポーツもそうですが、実際にその場で楽しむライブ感の持つ魅力は不思議なものです。例えば、芝居のストーリーや役者の演技を楽しむだけなら、映像でも十分で、相撲の取組やその結果を見るだけなら、TV観戦がベストでしょう。ところが、ライブの臨場感には格別なものがあるわけです。音や映像は、その代替にすぎず、あるいはライブとは別物です。やはり、人間の頭脳が持つ情報処理力の高さが関係しているのでしょう。加えて、ライブは、一度参加すると、また行きたくなるという、妙な習慣性をもっているようにも思えます。それは、情報処理力の問題だけでは説明できなように思えます。

それは、恐らく、連帯感に深く関係しているのではないでしょうか。演者や競技者と観客との連帯感、あるいは観客同志の連帯感こそライブの魅力なのだと思います。連帯感こそエロティシズムの根源であり、人は連帯感を求めて生きる、と言ってもいいのでしょう。演者や競技者は、観客との見えない対話のなかで、パフォーマンスのギアを上げたり、変えたり、あるいは歓声を受けてアドレナリンの分泌を高めたりするものだと思います。いわば共同作業に近いとも言えます。そして、観客同志の連帯感は、お祭りと同じ効用をもたらします。

平生の国技館など、その典型であり、飲んで食べて歓声をあげて、完全にお祭り状態です。今は、観客も半分以下、飲食禁止、声を出すことも禁止です。それはそれで取組に集中できるメリットもあります。しかし、コロナ感染が安定し、通常開催に戻った時には、飲食も声出しも解禁すべきです。取組だけが、大相撲の魅力ではありません。コロナ禍で広がったリモート文化が妙に定着するようなことがあれば、企業にとっても、国にとっても、ひいては人類にとってもいいことではありません。人は、一人にしてはいけない動物です。(写真出典:tabicffret.com)

マクア渓谷