パンアメリカン航空は、20世紀のアメリカを、そして世界を代表する航空会社でした。パンナムとヒルトンは、まさにパクス・アメリカーナの象徴でもありました。ちなみに、パンナム傘下のホテルは、インターコンチネンタルでしたが。パンナムの創業は、1927年。キューバとの航空郵便から事業を始めます。ほどなく旅客便にも進出し、国際線のパイオニアとして世界に航路を広げます。第二次大戦中は、機材と乗員を軍に徴用されますが、それが後に政府との太いパイプになり、パンナムの強みになります。経営者は、市場の寡占・独占を目指すものです。創業者の一人で、長くパンナムに君臨したファン・トリップも、戦後、政治力を使って国際路線独占を目論見ます。そこに立ちはだかったのは、TWA等を傘下におく大富豪ハワード・ヒューストンでした。
熾烈な争いの末、独占の夢は破れ、欧州線はTWA、太平洋線はノースウェスト、南米線はブラニフが獲得します。ただ、パンナムは、全世界へのアクセスを手元に残し、海外旅行ニーズ拡大とアメリカ企業の国際展開を背に、世界の翼へと成長します。旅客機のジェット化、大型化、超音速化、そしてJFK空港の専用ターミナル、あるいはNYの象徴ともなった巨大なパンナム・ビル建設と、パンナムは飛ぶ鳥を落とす勢いでアメリカを代表する企業へと成長します。ファン・トリップは、黄金期と言える1968年に退任しますが、その後、パンナムには暗雲が立ち込め始めます。放漫経営のツケ、機材購入の巨額な負債等が経営を苦しめます。世界の航空界のリーダーであったパンナムの息の根を、最終的に止めたのは、ディレギュレーションとロッカビー事件でした。
1978年、ジミー・カーター政権による航空規制緩和、いわゆるディレギュレーションが行われると、エアフェアは下落、収益は悪化します。パンナムは、手薄だった国内線への本格導入に着手しますが、初期コストがかかり過ぎて失敗します。一方で、組合は、世界最高水準の年俸を手放しません。パンナムは、ドル箱路線や機材の切り売りに入らざるを得ませんでした。そこへ追い打ちをかけたのが、ロッカビー事件です。1988年、ヒースロー空港を飛び立ったパンナム103便は、スコットランドのロッカビー上空で爆発、空中分解します。死者は270人。カダフィー率いるリビア政府が関与するテロでした。同時に、荷物検査を怠り、搭乗していない旅客の荷物を積んでいたことに関し、パンナムも有罪判決を受けます。
パクス・アメリカーナの象徴であり、アメリカ資本主義の象徴もであったパンナムは、イスラム系テロリストにとって最適のターゲットとなりました。顧客は、もはやパンナムを選択しなくなり、パンナムは消えていきました。ファン・トリップがパンナム帝国を築くに際して強引に打ち立てた柱の数々が、70年代以降、すべて禍の元に変じ、帝国は崩壊していったわけです。パンナムの盛衰は、20世紀アメリカの光と影そのものでもあります。(TVシリーズ「PANAM」 写真出典:amazon.co.jp)