2021年8月14日土曜日

わらしべ長者

長谷観音
貧乏な男が長谷観音に参詣すると「寺を出たところで手に触れたものが賜り物だから持って行け」とお告げを受けます。男は、寺を出たところでつまづき、藁に手が触れます。これがお告げかと、藁をもって帰る途中、虻がうるさいので捕まえて藁で縛ります。通りかかった貴族の子供が、それが欲しいと騒ぎます。従者が、ミカン三つとの交換を提案します。ミカンを手に入れた男は、疲れて水を欲しがる身分の高い人に会います。男は、ミカンと上等な布三反と交換します。翌朝、立派な馬に乗る人に出会います。ところが、その馬が急に倒れて死にます。主人は、従者に馬の処理を命じて行ってしまいます。男は、処理に困る従者に、布一反をやり、死んだ馬を買います。長谷観音に向かって、馬を生き返らせ給えと祈ると馬は生き返ります。男は、馬を連れて京に上ります。すると旅に出ようとしていた人が、馬と自分の田と交換してくれと言います。その後、男は、その田からとれた米で、豊かになりました。

ご存知「わらしべ長者」です。12~13世紀の「今昔物語集」と「宇治拾遺物語」が初出とされます。様々なバリエーションがありますし、面白いことに、英国や韓国等にも、似たような話があるようです。霊験あらたかな長谷観音を宣伝するために作られた話かもしれません。ベースになっているのは物々交換です。最も古い経済活動とも言われますが、今も無くなったわけではない相対取引です。物々交換を効率化するために、貨幣が生まれたと聞かされてきましたが、その因果関係を伝える証跡は見つかっていないようです。同様に、貨幣誕生以前の市場経済を担っていたという話も、一切証跡がないようです。要は、相対取引という性格からして、貨幣や市場といった社会システムとは、無縁なところで続いてきたということなのでしょう。

この「わらしべ長者」をマーケティング的に見ると、なかなか面白いことになります。藁も虻も価値のないものですが、組み合わせることで、特定のターゲット、ここでは幼児に対しては価値を生み出すことになります。価値の創造です。高価でもないミカンが、今それが必要な人にとっては、上等な布に値するというのは、価格決定プロセスそのものです。馬が田と交換されるのも、同様のプロセスです。いずれも、ターゲットが特定されているがゆえに成立しています。まさにマーケティングの大原則です。ドラッガーは「マーケティングの目的はセールスを不要にすることだ」と言っています。ターゲットが明確で、ターゲットが欲するものを提供すれば、販売というプロセスは不要になります。わらしべ長者が販売しようと思ったのは、馬だけです。他は、求められて交換しただけです。

当たり前のことですが、物々交換は、ターゲットとニーズが明確です。販売というプロセスを必要としません。市場経済や貨幣とは無縁であり、独立した存在だとも言えます。わらしべ長者は、ターゲットとニーズを発掘するマーケティング・プロセスそのものです。もちろん、作者のねらいは、長谷観音の御利益によって幸運を得たということなのでしょう。また、観音様の助けは借りたが、手に入れた田を地道に耕したからこそ豊かになった、という勤勉を奨励する説話だともされています。どうもそれもピンと来ません。長谷観音の認知を高め、参拝客を増やすために、長谷寺の賢い坊さんが考え出したブランディング手法だったとしか思えません。マーケティングは、コトラーが体系化しただけであって、彼が発明したものではありません。

わらしべ長者と課税というコラムを読んだ記憶があります。結論から言えば、田は、譲渡所得に該当するようです。家具、什器、通勤用自動車、衣服など生活用動産の譲渡による所得は原則として非課税ですが、土地等は課税対象です。取得費と譲渡費用を除いた譲渡所得が課税されます。それは、物々交換でも同様だとされます。ま、それは理解できる話です。わらしべ長者は、等価交換したと主張することになるのでしょう。極端に言えば、藁と田は同じ価値だと抗弁するわけです。もちろん、通用しません。田の現在価値から馬の現在価値を引いたものが譲渡所得と認定されます。わらしべ長者としては釈然としないと思いますが、止む無しです。国税は、そんなに甘くありません。(写真出典:yamatoji88.jp)

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