2021年8月13日金曜日

不射の射

中島敦
中島敦の短編「名人伝」は、「列子」を素材とする弓の名人の話です。中島敦の遺作とも言われます。実に中国的な名人話で面白いのですが、さらに面白いのは、その解釈に議論があることです。主人公は究極の名人になったとも、 実は名人ではなかったとも言われます。 様々に解釈される様子を見て、 中島敦は、シメシメとほくそ笑んでいるのかもしれません。趙の都・邯鄲に紀昌という男がおり、弓の名人になりたいと思い、当代随一という名人の門を叩きます。 

名人は、 まず瞬きしない訓練をしろ、と言います。 紀昌は、妻の機織台の下で2年訓練し、 一切瞬きしなくなります。次に、 小さなものが大きく見える訓練をしろ、 と言われ、 虱を髪の毛に結び、 見続けること3年、 ついに大きく見えるまでになります。 ようやく名人は、紀昌に弓の奥義を教えます。 瞬く間に上達した紀昌は、師匠がいなければ、自分が一番になれると思い、師匠を襲います。名人同士の戦いは決着がつかず、名人は、私が教えることはもうない、霍山の甘蝿老師に学べ、と言います。ようようたどり着いた山中で、甘蝿老師は、まず弓を引いてみろ、と言います。紀昌は、一矢で5羽の鳥を射抜いて見せます。

老師は、お前の弓は「射の射」だ、まだ「不射の射」を知らぬと見える、と言って、弓矢を持つことなく、一羽の鳶を打ち落とします。それから10年、山中で修行した紀昌は、廃人のようになって都に戻ります。かつての師匠は、弓矢を持たない紀昌を見て真の名人の誕生だと騒ぎます。それから様々な噂が立ちます。紀昌の家に入ろうとした泥棒が、鋭い殺気に射抜かれたように塀から落ちた、紀昌の家の上だけ鳥が飛ばない等々。帰郷して3年後、知人の家で弓矢を見た紀昌は、真顔で「これは何か?」と尋ねます。

さて、紀昌は究極の名人になったのでしょうか、あるいはただの廃人になったのでしょうか。中島敦にとって、それはどうでもいい話であり、「名人伝」は、既に名人話でも無いのでしょう。むしろ、仏教的説話のように思えます。紀昌は、一番の名人を目指し、超人的な努力を重ね、しかも師を亡きものにしようとまでしますが、これはまさに煩悩のかたまりと言えます。霍山の甘蝿老師の言う「射の射」は物質社会そのものであり、「色」と言えます。対して「不射の射」は解脱した状態、つまり「空」へ至る道なのでしょう。しかし、紀昌に「不射の射」を見せつけた甘蝿老師も、まだ涅槃の境地には達していないと言わざるを得ません。

甘蝿老師のもとで10年修行し、廃人にようになった紀昌こそ、無我の境地に達し、「空」に近づいていたのでしょう。「空」を体現できれば涅槃です。ただ、「空」を理解するだけでも難しく、「空」を人に伝えることは、さらに難しく、故に実に多くの教典が存在します。物書きとしての中島敦が、最後に試みたのは、「空」を彼なりに伝えようとすることだったのではないでしょうか。 紀昌は名人か否かという問い、あるいは名人話自体が否定されているようにも思えます。(写真出典:ja.wikipedia.org)

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