ゼロ戦の優位性は、長い航続距離、強力な機銃2門という攻撃力、そして優れた運動性能だとされます。実戦配備は、1940年夏、日中戦争でした。9月に初めて交戦しますが、13機編隊のゼロ戦部隊は、無傷のまま敵機を27機撃墜するという大成果でした。しかも、初陣のゼロ戦部隊に対して敵部隊は経験豊富なパイロットばかりだったと言います。大陸でのゼロ戦は、まさに無敵の活躍を続けます。40年12月、太平洋戦争に突入しても、連合軍機に対するゼロ戦の優位は際立っていました。米軍パイロットの間には、恐怖心が広がっていったとも言われます。しかし、それも42年のミッドウェイ海戦まででした。
42年、米軍は、アリュ―シャン列島に不時着したゼロ戦を鹵獲します。徹底的に研究した結果、ドッグファイトを避ける、あるいは優位高度からの一撃離脱戦法といったゼロ戦への対応策があみだされます。これによって、ゼロ戦による損害は減少されます。さらに、新たな戦闘機の開発も進み、ゼロ戦の餌食となっていたワイルド・キャットに代わって、コルセア、ヘルキャット等の新鋭機が投入されます。一方、 日本では、ゼロ戦の後継機の開発が遅れます。優秀ながら、既に優位性を失っていたゼロ戦ですが、終戦まで主力戦闘機として製造され続けました。工業生産力の差が勝敗を分けたとも言われる戦争を象徴するような話です。
ゼロ戦の航続距離や運動性能といった利点は、機体の軽量化によるところが大きかったようです。軽量化は、超々ジュラルミンといった軽量素材、素材の肉抜き加工等に加え、防弾機能を犠牲にして成立していました。つまり防御よりも攻撃を優先させたわけです。もちろん、攻撃は最大の防御、 という言い方もあります。しかし、明らかにパイロットの命を犠牲にして軽量化を実現していたと言えます。帝国陸海軍の精神性を優先する傾向に通じるものがあります。戦争末期、兵器や弾薬等が不足してくると、 精神力重視の傾向は異常なレベルにまで達していきました。
第二次大戦後、連合国によって、日本とドイツの航空機製造は根絶やしにされます。ゼロ戦の設計者堀越二郎が、再び航空機を設計できたのは、50年代末期に始まるYS‐11計画でした。東西冷戦が激化した50年代半ば、日本には航空自衛隊が、ドイツには空軍が創設されます。ドイツは、NATOの枠組みのなかにあり、60年代早々、欧州各国と共同で戦闘機製造を再開しています。日本には、まだ純国産戦闘機はありません。2030年代に運用開始が見込まれる次期戦闘機は、国産戦闘機となります。ただ、エンジンは、IHIとロールス・ロイスの共同開発になりました。エンジンの純国産化は、ハードルが高いようです。(写真出典:ja.wikipedia.org)