アルバム名: Illmatic(1994) アーティスト名:Nas
「Illmatic」は、ラッパーNasのデビュー・アルバムです。Nasは、1973年の生まれで、NYのクイーンズ・ブリッジ・ハウジング・プロジェクトで育ちます。ハウジング・プロジェクトは、低所得者向けの公営団地です。第二次大戦後、膨大な数の帰還兵たちの住宅対策の一環として、巨大な団地が作られました。帰還兵たちは、家族と収入が増えるにつれ、団地を離れていきます。それを埋めたのは黒人やヒスパニックでした。ハウジング・プロジェクトが、ほどなく犯罪の巣窟になっていくのは、やむを得ない流れだったのでしょう。若者は、ギャング団に所属しなければ、生きていくことが困難になります。そこに麻薬、そして銃が入り、ギャング団同志の抗争が激しくなります。70年代、最大のギャング団だったゲットー・ブラザースのベンジャミン・メレンデスが打ち出した和平協定のなかから、ヒップホップが生まれます。しかし、黒人とハウジング・プロジェクトを巡る環境が変わったわけではありませんでした。Nasは、そうした環境の中で育ちます。学校を中退し、麻薬の売人をしながら、ジャズ・トランぺッターの父の影響もあり、音楽の世界を目指します。16歳でメイン・ソースのレコーディングに参加した後、NYラップ界で頭角を現していき、1994年、ファースト・アルバム「Illmatic」をリリースします。
NY発祥のラップでしたが、当時は、圧倒的に西海岸のギャングスタ系ラップが人気でした。注目を集めてたNasのレコーディングには、NYの大物プロデューサーたちが参加します。NY復権のために集まったとも言えます。彼らが持ち込んだリズムは、それぞれエッジがきいていて、アルバムの完成度を高めています。Nasの独特の声とキレのいいラップも見事ですが、その歌詞も高い評価を得ます。その才能、センスの良さが、言葉という翼を得て自在に空を飛んでいるような印象を受けます。すさんだ環境で育ったNasですが、聖書やクラーンには親しんでいたと言います。
Nasの詞は、複層的に畳みかける韻、強烈なキラー・フレーズも特徴ですが、最も印象的なのはその叙情性だと思います。なかでも「One Love」は名曲だと思います。刑務所に入っている友人に宛てた手紙の形式を取り、ハウジング・プロジェクトの日常を伝えています。友人の子供の誕生、不誠実なパートナー、友人の死、友人が売人になったこと等々、Nasを取り囲む現実が語られています。手紙の形をとることで、気負うことなく、NYの黒人たちが直面する絶望的な現状が、淡々と歌われます。それがリアルさを一層ストレートに伝えています。そして、そこにうっすらとしたセンチメントを乗せるあたりがNasの才能だと思います。
ヒップホップやラップは、誕生から50年近くを経て、明確なジャンルを築き、世界中に定着しています。今や、様々なラップが存在し、コマーシャル・ベースでも大きな成功を収めています。「Illmatic」は歴史的名盤になりましたが、それ以降のNasのアルバムは、あまり感心しません。その後、グラミーも獲得していますが、完成度は高くても、あまり面白くありません。Nasと言えども、コマーシャル・ベースにならざるを得なかったのでしょう。Nasが、ハウジング・プロジェクトに、ストリートに身を置いていたからこそ、名作「Illmatic」は生まれました。(写真出典:amazon.cojp)