2021年8月18日水曜日

少年十字軍

11世紀末、セルジューク朝にエルサレムを奪われた東ローマ皇帝は、ローマ教皇に助けを求めます。皇帝が依頼したのは、傭兵の派遣でした。しかし、政治的覇権の拡大を狙う教皇は、西欧諸国に対して、聖地奪還のための軍の組成と派遣を訴えます。十字軍の始まりです。ローマ教皇は、参加者に免罪を与えます。犯した罪がチャラになり、天国へ行けると教皇が約束するわけですから、とてつもなく大きな報奨です。実は、第1回十字軍の半年ほど前に、4万人の民衆が十字軍としてフランスを発っています。ただ、戦闘力に乏しい民衆十字軍は、セルジューク軍に、なんなく蹴散らされています。

当時の西欧は、農業生産力が高まり、人口も増加していました。土地不足が顕在化するなか、天災や疫病も重なり、人々は、逃げるように”乳と蜜の流れる約束の地カナン”を目指したのでしょう。正式な十字軍も、騎士だけで構成されていたわけではなく、農民、商人、巡礼者、娼婦等々も多く同行しています。十字軍は、諸侯を中心に全8回組成されていますが、他にも民衆の熱狂が生んだ小規模な十字軍が多数あったようです。その一つが、13世紀初頭の「少年十字軍」です。神のお告げを受けたというフランスのエティエンヌ、ドイツのニコラウスという少年が先導となり、ゆく先々で多くの民衆を巻き込み膨れ上がっていきます。

少年十字軍とは言いますが、実態は、青年や他の食い詰めた民衆だったとされています。ニコラウスの一団は、ジェノバへ到達しますが、食料不足を怖れた街によって追い返されています。エティエンヌの率いた集団は、フランス国王によって解散命令が出されますが、十字軍運動への刺激にしようとする教皇は放任します。なんとか海に出たエティエンヌ隊でしたが、船が遭難し、生き残りも商人に騙され、奴隷として売り飛ばされます。ただ、このような動きがあったことは事実としても、海に出たという証跡は何も無く、尾ひれはひれがついて、話が広まったようです。少年十字軍が、最も有名になったのは、実は、19世紀のアメリカでした。

著名な聖職者たちが、少年十字軍の悲惨を伝える書籍を出版します。18~19世紀、啓蒙主義者やプロテスタントによって展開された「カソリックの圧政=暗黒の中世」プロパガンダの一環でした。一次資料をつまみ食いして作り上げたフィクションですが、聖職者の言っていることだけに、あたかも史実のごとく定着していきました。歴史の捏造は大問題です。ただ、十字軍は急激で熱狂的な民族大移動とも言えるような面もあり、悲惨な話には事欠かなったものと思います。西欧の外にしか新たな領土を得られなくなった騎士たち、食い詰めて逃げ出すしかなかった農民たち、いわば発火点に達しつつあった油に、免罪特権という火を注いだのがローマ教皇だったと言えます。

少年十字軍は、宗教的熱狂が生み出したマス・ヒステリアの一種なのでしょう。規模の大きなマス・ヒステリアは、宗教的なものが多いように思います。しかも、概ね、時代の転換期といった社会的不安を背景に発生しています。江戸末期に発生した”ええじゃないか”等も典型だと思われます。辛く厳しい現実、先が見通せない不安から逃避するための大義名分を、宗教が与えてくれる、ということだと思います。十字軍は、ローマ教皇の政治的野心が引き起こしたマス・ヒステリアですが、オリエントと西欧の文化交流という副産物も生み、その後の西欧の発展に寄与した面もあります。(写真:ギュスターブ・ドレ「少年十字軍」 出典:ja.wikipedia.org)

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