妖怪が、山伏姿になっていくあたりが面白いところです。室町時代の山伏は、庶民にとって、相当に胡散臭い連中だったということなのでしょう。修験道、いわゆる山伏の開祖は、7~8世紀に実在した役小角(えんのおづぬ)だとされます。役小角は、呪法を学んだ後、山岳修行を行い、修験道の基礎を築いたとされます。ただ、役小角開祖説は、後代の創作との説が有力です。実際には、平安期から起こった神仏習合の動きのなかで、古来から存在する山岳信仰に神道や仏教がミックスされ形を成したものと考えられています。密教が山岳修行を行うことから、密教との関わりが深いとされます。霊山深く入り、厳しい修行を行うことで、功徳の現れである「験力」を獲得し、それを使って民衆を救済するのが修験道とされています。
山岳信仰は、古くから世界中に存在しています。いわゆるアニミズムであり、山を霊的な存在とすること、神のいる場所とすること、あるいは死界とすること等によって構成されます。ギリシャのオリンポス山、中国の五岳信仰、仙人が住む蓬莱山等々、枚挙に暇がありません。その後に成立した宗教にも、山岳信仰は受け継がれていきます。仏教の須弥山、ユダヤ教のシナイ山、チベット仏教のカン・リンポチェ等々、これまた多く存在します。山が持つ否定できないほどの存在感、圧倒感ゆえだと思われます。しかし、修験道のような、霊山で修行して山の力を身に付けるといったアプローチは、あまり聞いたことがありません。山岳信仰とシャーマニズムが結びついた独特な信仰の形だと思います。
シャーマンは、霊界と人間界をつなぐ存在であり、病気を治したり、予言をしたり、死者と交信したりします。シャーマンは、里の中にいるからこそ、その役割を発揮します。人々とは異なる存在ですが、同じコミュニティに暮らす馴染み深い存在です。対して、山伏は、常日頃、霊山奥深くで修行に明け暮れています。里の人々にとって、恐ろしい霊界である山で修行する山伏は、時としてその験力に頼ることがあったにしても、やはり理解を超えた異端の集団だったのではないか、と思われます。恐ろしい天狗が山伏の姿になったのは、単に山中に住まいするという共通点だけではなかったと思えます。異形の妖怪が山伏姿で描かれることを、当の山伏たちは、どう思っていたのでしょうか。
天狗は、妖怪ではなく、山の神としてあがめられることもあります。全国にある愛宕神社の本尊は愛宕権現ですが、大天狗である愛宕山太郎坊のことです。同様に、秋葉権現は秋葉山三尺坊とされます。面白いことに、いずれも火伏の神として有名です。秋葉権現は、秋葉原の地名の由来でもあります。ある意味、最もよく知られている大天狗は、鞍馬山僧正坊だと思います。別名が鞍馬天狗であり、牛若丸、後の源義経に剣術を指南したことで知られます。さらにその名を広めたのは大佛次郎の人気小説「鞍馬天狗」です。何度もTVドラマ化されています。ただ、鞍馬山僧正坊とは、まったく無関係の創作キャラクターです。(写真出典:ja.wikipedia.org)