2021年8月26日木曜日

長征

長征ルート
1934年、瑞金拠点を国民党軍に包囲された中国共産党軍は、10万の兵士をもって西へと脱出します。 2年間に渡り、1万2500キロを踏破した「長征」の始まりです。 日本列島を2往復弱という、とてつもない距離です。国民党軍や四川軍閥と戦いながら、陝西省延安の拠点に到達した時、10万の兵力は、数千人まで減っていました。最終的には、共産党軍が国民党軍を大陸から追い出したので、「長征」という言葉も成立するのでしょうが、実態は空前絶後の大敗走です。

中国共産党は、1921年7月、上海で結党されています。現在1億人に迫る党員数も、結党時は57名、第一回党大会には13名が参加したとされています。設立当初、中国共産党は、コミンテルンの指導下にあり、ロシア人とモスクワ留学組が支配していました。コミンテルンは、ロシア革命を世界へ広げる目的で、レーニンが設立した国際共産主義運動の指導部です。コミンテルンは、都市部の労働者による革命にこだわります。一方、毛沢東は、中国の実態を踏まえ、農村部からの革命を目指します。国民党との連携、武装蜂起の失敗等、コミンテルンによる指導は迷走し、結果、国共分裂以降、国民党軍によって追い詰められていきます。ついには、毛沢東が瑞金に築いていた解放区まで退いていくことになります。

この時点でも、まだ毛沢東は主導権を握っていません。依然、コミンテルン派が主導する都市部での革命を模索しますが、いずれも失敗。逆に国民党軍は、数次に渡る囲剿作戦で共産党軍を追い詰めていきます。コミンテルンから派遣された軍事顧問オットー・ブラウンは、圧倒的多数の国民党軍に包囲された瑞金での塹壕戦を指示します。兵力・装備に劣る共産党軍にとっては自殺行為に等しい無謀な戦術でした。毛沢東等は反対しますが、押し切られます。ブラウンは毛沢東のゲリラ戦を毛嫌いしていたとも言われます。案の定、共産党軍はジリジリと押し込まれ、逃走するしかなくなり、長征が始まるわけです。

長征期間中、多くの戦闘が繰り広げられますが、最も重要な出来事は、遵義会議だと言われます。1935年1月、敗走を続ける共産党軍は、貴州省遵義で、はじめて休養を取り、あわせて今後の方針に関する幹部会議を開きます。博古、周恩来、ブラウンらコミンテルン派は、徹底的に批判されます。批判された周恩来は自己反省し、毛沢東支持に回ります。まだ集団指導体制ながら、ここで毛沢東の主導権が明確になりました。中国共産党にとっては極めて重要な分岐点だったわけです。ちなみに、遵義会議参加者のなかには、朱徳、陳雲、劉少奇、鄧小平、林彪、聶栄臻、彭徳懐、楊尚昆等も含まれています。その後の中華人民共和国を動かしていくことになる面々が揃っていたわけです。

中国共産党は、延安において、見事に建て直されます。蒋介石が、抗日に舵を切ったことが幸いしたと言えます。毛沢東は、延安において、その後の戦い方、国家と党のヴィジョン、そして毛沢東理論を完成させます。それらには、明らかに長征での経験が活かされているものと考えます。例えば戦略論における戦略深度、敵を中国奥深くまで進軍させ、そのうえで補給を断ち殲滅するという考え方は、長征そのものだとも言えます。十分な戦略深度を確保するためには、外縁部は拡張されていった方が有利です。中国が、チベット、ウイグル、北朝鮮、南沙諸島等を重視する理由の一つでもあります。長征という大逃亡劇が現代中国に与えた影響は、とても大きいわけです。(写真出典:news.yahoo.co.jp)

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