こけし発祥の地とされるのが、宮城県の鳴子、遠刈田、福島県の土湯ですが、すべて温泉地です。こけし発祥の経緯は、随分古い時代の畿内にまでさかのぼります。8世紀、藤原仲麻呂の乱の後、称徳天皇が安寧を願って「百万塔」を作らせ、多くの寺に納めます。百万塔は、高さ13センチ余りの木製の塔であり、内部にはお経が納められていました。そのお経は、世界最古の印刷物と言われます。百万もの塔の製作には、多くの木工職人が携わったはずです。轆轤(ろくろ)の技術を身に付けた職人たちは木地師と呼ばれます。木地師たちは、百万塔が完成すると、木材を求めて各地を移動しながら、食器等を作っていたようです。木地師は”朱雀天皇の綸旨”なるものを持っており、各地の山の七合目以上で材料となる樹木を自由に伐採できました。
農林業の生産性が高まった江戸中期になると、山林の活用も進み、木地師たちの特権も制限され始めます。近畿地方に多かった木地師たちは、材料を求めて東北へと移動します。その東北でも伐採が制限されると、移動することを止め、山麓に定住するようになります。おりから、東北では、農民たちの間に湯治の習慣が広まっていました。 木地師たちは、湯治場の土産物として、こけし人形を作り始めたということのようです。当時、小田原・箱根あたりで、”赤物”という疱瘡(天然痘)除けの玩具が人気を博していました。赤い色は、天然痘から子供たちを守るとされていました。どうも、この赤物の影響を受けて、赤い色を使った木工人形が作られたようです。
全国各地には、赤い色の民芸玩具が多く見られますが、ほとんどが疱瘡除けが由来だと思われます。天然痘は、1万年前から人類を苦しめてきたウィルスです。日本には、7世紀に入ってきたようですが、瞬く間に全国に広がっています。18世紀末に、英国のエドワード・ジェンナーが世界初のワクチンである種痘を確立します。種痘は、19世紀初頭には、日本にも入っていますが、鎖国下でもあり、なかなか理解を得られなかったようです。最終的には、近代医学の祖と呼ばれる緒方洪庵の活躍をもって、種痘は日本にも広まっていきます。1980年には、世界保健機構が、天然痘の完全撲滅宣言を出しています。人類とウィルスとの長い戦いの中で、 人類が完全に勝利した唯一の例であり、現在、自然界に天然痘ウィルスは存在していません。
江戸末期から明治にかけて、湯治の広がりとともに、こけしはよく売れたようです。戦後の高度成長期に入ると、温泉地は、行楽ブームに伴う団体旅行、社員旅行で賑わうことになります。昭和版の湯治といったところでしょうか、こけしも最盛期を迎えます。東北の各家庭にあるこけしも、この時期に購入されたものなのでしょう。こけしは、土地によって、形も絵柄も異なります。私が好きだったのは、宮城県の鳴子温泉のこけしでした。首が回る構造になっており、回すと、キュッ、キュッと音がします。鳴子というだけあって音が出るのだと思っていました。(写真出典:kogeijapan.com)