飛鳥時代は、592年、推古天皇が豊浦宮(とゆらのみや)で即位した時から、藤原京、ないしは平城京への遷都までの約1世紀を指します。大雑把に言えば、推古天皇の摂政だった聖徳太子が国としての形を整え、国家鎮護のための仏教が隆盛し、白村江で唐・新羅に大敗し、中大兄皇子が国防強化のために律令体制を導入し、初めての都城である藤原京が造られた時代です。部族国家であった倭国が、中央集権的な日本国へと変貌を遂げた世紀と言えます。豊浦宮から藤原京に至る王宮は、奈良盆地南部に集中しており、現在の明日香村一帯が飛鳥と呼ばれます。実に狭いエリアであり、明日香村北部の甘樫丘に登れば、歴史の舞台をほぼ一望できます。今回の目的の一つが、この甘樫丘に登ることでした。
甘樫丘は、飛鳥川に面した標高148mという小高い丘です。万葉集で歌われた植物を集めた”万葉の植物路”を中心に国営歴史公園として整備されています。7世紀前半に権勢を振った蘇我蝦夷と入鹿の親子が、それぞれ邸宅を構えていたことでも知られます。蘇我氏は、武部宿禰を祖とする有力豪族です。蝦夷の父である蘇我馬子は、半島から伝来した仏教に深く帰依し、仏教を邪神とする物部守屋と対立します。皇位継承を巡って対立を深めた両者は、587年、ついに刃を交えます。丁未(ていび)の乱です。苦戦した馬子が勝利できたのは、陣営に参加していた厩戸皇子、後の聖徳太子が四天王像を彫り、戦勝を祈願したためとされます。馬子は、崇峻天皇を即位させますが、政策全般で溝が深まったため、崇峻を殺害します。
そして、日本初の女帝である推古天皇を擁立し、聖徳太子を摂政とします。蘇我氏が実権を握ったわけですが、入鹿の時代になると、その専横ぶりは度を超し、天皇位を窺うまでになったとされます。645年、入鹿は、中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足(後に藤原鎌足)らによって、皇極天皇の目前で殺害されます。蝦夷も自害しています。この乙巳(いっし)の変を機に大化の改新が始まります。日本書紀は入鹿の大悪人ぶりを多く語りますが、近年の発掘・研究によって、それらが事実ではないことが判明しつつあるようです。藤原氏が、入鹿殺害を正統化するために偽造した、というのが学界の定説になっているようです。さらに、17条の憲法などは馬子の業績であり、それを否定するために、聖徳太子という人物がねつ造されたという説まであります。いわゆる勝者の歴史というわけです。
蝦夷・入鹿の邸宅があった甘樫丘の上からは、東に飛鳥寺を見下ろすことができます。蘇我馬子によって建立された飛鳥寺は、伽藍を備えた日本初の仏教寺院とされます。既に伽藍は失われ、小ぶりな寺院が再建されています。本尊は、日本初の仏像とされる釈迦如来像であり、飛鳥大仏とも呼ばれます。法隆寺金堂の国宝・釈迦三尊像の作者としても知られる渡来人の止利仏師の作とされます。ただ、飛鳥大仏も幾たびか焼失し、首だけが残ったとされます。現在は、修復を重ねた姿で鎮座しています。飛鳥寺の境内を西に出てすぐのところには、入鹿の首塚があります。甘樫丘、入鹿の首塚、飛鳥寺が一直線に並んでいるわけです。わずかな距離のあいだに、蘇我氏の盛衰が凝縮されているとも言えます。(写真:蘇我入鹿の首塚、後方は甘樫丘)