2023年11月23日木曜日

益子と民藝

久方ぶりに益子へ行ってきました。益子名物の陶器市が終わった直後で、多くの店が休業、人もまばらでしたが、穏やかな秋の日差しのもと、のんびりと散策できました。益子の陶器市は、春秋2回開催されます。常設店舗50店に加え、窯元や作家が直接出店する特設テントが600張りも並ぶと聞きます。人出は、春が40万人、秋は20万人という大イベントです。日本三大陶器市と言えば、佐賀の有田陶器市、岐阜の土岐美濃焼まつり、愛知のせともの祭になります。ただ、陶器市は、全国各地の産地で開催され、どこも多くの人で賑わいます。単に陶器が安く買えるだけなら、人出も知れたものでしょうが、やはり日本人は陶器好きなのだと思います。 

益子は、豊富な陶土を背景に、古くから陶器作りが行われていたようです。ただ、益子の陶土は肌理が粗く、主に甕、壺、火鉢といった生活陶器が作られていました。その素朴な風合に惹かれ、益子で作陶し続けたのが濱田庄司でした。川崎の溝ノ口で生まれた濱田は、東工大窯業科で、近代陶芸の祖と言われる板谷波山に師事します。柳宗悦、河井寛次郎、富本憲吉、バーナード・リーチらとともに、民藝運動を起こしたことでも知られます。また、英国はじめ欧州でも知られた存在であり、人間国宝にも認定されています。益子焼の一般的なイメージは濱田によるところが大きいと思います。その後、モダンな作陶で知られる加守田章二が登場したことで、益子には多くの陶芸家が集まるようになり、多様な陶器を生み出していきます。

益子の中心部の丘の上には、益子古城跡があります。宇都宮氏の家臣だった益子氏の居城でしたが、益子氏は謀反によって16世紀末に滅ぼされ、廃城されます。現在は「陶芸メッセ益子」として、陶芸美術館の他に、濱田庄司邸と登り窯も移築、展示されています。濱田邸は、民藝の祖らしく素朴な日本家屋ですが、太い梁が印象的な見事な建物です。美術館では、折しも芹沢銈介展が開かれていました。染織家・芹沢銈介も、民藝運動の立役者の一人です。伝統工芸をモダンなデザインに展開したことで知られ、人間国宝に認定されています。美術館では、同時に「棟方志功と京都・十二段家」展も開催されていました。民藝運動の聖地の一つである料理屋の十二段家は、しゃぶしゃぶ発祥の店として知られます。

しゃぶしゃぶは、戦争中、中国に軍医として派遣されていた民藝運動家の吉田璋也が、帰国後、モンゴル自治区の涮羊肉を十二段家に伝えたことから始まります。ちなみに、しゃぶしゃぶという名称は、十二段家からレシピを教わった大阪のスエヒロが命名しています。民藝運動家や文学者のサロンだったという十二段家には、棟方志功や河井寛次郎の作品があふれていると聞きます。棟方志功の出世作「大和し美し」には興味深いエピソードがあります。まだ無名だった棟方は「大和し美し」を国画展に出品しようとしますが、大きすぎて出品を拒否されます。たまたまそこに居合わせた柳宗悦と濱田庄司が作品に感銘を受け、その出品を実現させたと言います。それが、後にヴェネチア・ヴィエンナーレを征し、世界のムナカタとなる版画家の始まりだったわけです。

昔から疑問に思っていることがあります。民藝調とも言える独特の字体があり、民藝フォントとしても知られています。スエヒロや東京にしゃぶしゃぶを紹介した”ざくろ”の店名ロゴも民藝調です。その起源は、調べてもよく分かりません。ただ、棟方志功の版画に多く登場する独特の文字によく似ています。棟方の場合、意図した字体というよりも、荒々しく彫った木版が生む風合のようにも見えます。それが、風土が直接語りかけているような棟方の作風を形作っている面もあります。棟方の文字に芹沢銈介のデザイン性が加わり、今の民藝調の文字ができているように思えます。ちなみに益子の陶器市のメイン・バナーも、木版画に民藝調の文字が並んでいます。益子は、陶器と民藝の町です。民藝は、やさしくしっくりとした安心感を与えてくれます。(写真出典:mashiko-kankou.org)

マクア渓谷