2023年11月15日水曜日

鵯越

“鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし” は、一ノ谷の合戦のおり、源義経が騎乗したまま崖を下り、平家を蹴散らすという平家物語屈指の名場面です。須磨浦から舟で敗走した平家は、屋島でも惨敗、さらに西へと向かい、壇ノ浦で滅亡します。平家物語は、鎌倉時代に成立したとされる軍記物語です。盲目の琵琶法師によって、節をつけて語られる平曲としても知られます。歴史書ではなく、あくまでも大衆向けの語り物です。大筋では歴史を踏まえているとしても、細部は大いに脚色されていて当然です。逆落としについても、それが事実か否かを含め、種々の議論があります。逆落としが行われた場所については、神戸市西部の鉄拐山(てっかいさん)が、最も有力な候補とされています。

鉄拐山の姿は、写真や映像で何度も見ていますが、言うほど急峻な崖には見えません。一度、実際に見てみたいと思い、今般、初めて須磨浦へ出かけました。本来的には、鉄拐山に登るべきではありますが、レトロなロープウェイとカーレーターを使って鉢伏山に登り、東に鉄拐山を望むことにしました。実際に見てみると、崖は写真よりもかなり厳しいものでした。最大斜度は40度とのこと。30度の斜面でも、上から見れば直角に見えるものです。決して高い山ではありませんが、斜面には砂岩が露出しており、”須磨アルプス”と呼ばれるのも頷けます。人が降りることも危険ですが、馬に乗ったまま一気に下ることなどもってのほかです。逆落としが事実ならば、ギネス・ブックものの大チャレンジだと思います。

”鵯越の逆落とし”は、平家物語によって広まったフレーズと言えます。現在も六甲山地の西に鵯越という地名が存在します。平安期と同じ場所なのかは不明ですが、鉄拐山とは8kmも離れています。平家物語によれば、義経一行は獣しか通わない鵯越という難所を越えて一ノ谷口の裏手の山へ至ったということになります。つまり、“鵯越”と”逆落とし”の場所は異なります。それが、何故かひとまとめにされ一般化したわけです。近年の研究で、当時、国境の石碑がある場所は”ひよ”、谷筋は”とり”とも呼ばれていたことが分かったようです。鉢伏山は摂津と播磨の国境にあり、険しい谷もあり、”ひよ・とり”に合致します。逆落としは、鉢伏山で行われた可能性も浮上しているようです。

1184年、後白河法皇の平家追討の宣旨を受けた源頼朝は、5万6千の兵をもって範頼に大手を、1万の兵を率いる義経を搦手として、福原の平家本陣を攻めます。2月7日、浜沿いに進む大手軍は、夜明けとともに生田口の平家を攻め、激しい攻防戦が行われます。山中を行く搦手の義経は、三草山で平家を破った後、兵を分けて福原の北の夢野口へ向かわせる一方、自身は一ノ谷口を目指します。このあたりから、諸説が入り乱れることになります。平家物語、吾妻鏡、玉葉等で、微妙に違いがあります。鵯越で兵を分けたか否か、夢野口への攻撃を率いたのは安田義定か多田行綱か、逆落としが行われたのは鵯越か鉄拐山か、逆落としを行ったのは70騎だけなのか3千の兵なのか、等々。

それにしても、いまだに研究者や好事家の議論が絶えないということは、いかに源義経の人気が高いかを現わしています。歴史上確認できる義経の動向は、1180年、黄瀬川の陣において兄・頼朝と再会し、1189年、衣川で自害するまでの9年間だけです。享年31歳。奢れる平家を華々しい活躍で滅亡させ、頼朝に謀反を疑われて逃走し非業の死を遂げるという、短いながらも波瀾万丈な生涯が、人々を惹きつけてやまないわけです。九郎判官義経の人気は、鞍馬寺の牛若丸に始まり、大陸へ渡りジンギスカンになったという説まで、実に多くの伝説を生むことになります。それどこか、理屈抜きで弱いものに味方する判官贔屓という日本人の気質まで生みました。平家物語が語る”諸行無常”とは、平家の栄華と没落だけではありません。平家を滅ぼした義経の生涯もまた”春の夜の夢のごとし”だったわけです。(写真:鉢伏山から望む須磨浦)

マクア渓谷