2026年7月27日月曜日

清洲越え

河文
名古屋に赴任して、初めて”三英傑”という言葉を聞きました。もちろん、信長・秀吉・家康のことです。歴史を築いた三人の武将がすべて愛知県出身であることは県民の自慢です。ただ、三英傑という呼び方は全国的ではありません。それを名古屋の人に告げると、信じられないという顔をします。名古屋最大の祭は、1955年に始まった"名古屋まつり"ですが、地元での愛称は”三英傑まつり”です。パレードの目玉が郷土英傑行列だからです。三英傑同様、名古屋で初めて聞いた言葉に”清州越え”があります。家康の清州城から名古屋城への移転は”清州越し”とされますが、同道した家臣、僧侶、町人たちは”清州越え”と呼ばれます。清州越しを経験した家は、名古屋城開闢以来の名家として特別なリスペクトを集めています。

京都へ向かう新幹線が名古屋駅を出ると、ほどなく右手に清州城が見えます。これは1989年にコンクリートで再現された城です。清州城は、15世紀初頭、尾張守護の斯波義重によって築城され、後に尾張下四郡を支配する守護代織田家の本城となります。長く信長の居城だったことでも知られます。また、信長が本能寺の変に倒れると、後継者問題を議論する清州会議が開かれたことでも知られます。関ケ原の戦い以降、家康の九男・徳川義直が城主となり、豊臣方への防御拠点になります。しかし、庄内川下流にあって水害が多く、城も小ぶりであったことから、家康は熱田台地での築城を命じます。清州城は解体され、名古屋城の一部として再利用されました。1612~1616年にかけて、清州の城下町も、町ごと名古屋へ移転することになりました。

清洲越えと言えば、伊藤次郎左衛門のいとう呉服店(後の松坂屋)、竹中藤兵衛正高の竹中工務店、水野太郎左衛門の鍋屋、河内屋文左衛門の河文、今は存在しませんが渡辺忠左衛門の飛脚問屋などが有名です。茶道の町・名古屋には古い和菓子屋が多くあります。しかし、その多くは、名古屋城開闢後に京都等から来ており、清洲越えではありません。400年の歴史を持つ両国屋是清も元は大阪です。実は、ネットで探しても清洲越えの一覧のようなものは見つかりません。これも名古屋らしいな、と思います。創業の古い店がザラに存在するからでもありますが、町の人たちが心得ていれば十分といった傾向もあります。美味しい名古屋メシを全国に広めるべきでしょう、と財界の重鎮に話したところ、なぜそんなことをする必要があるのか、と返されたことがあります。

 名古屋城下の商人町は碁盤の目に区割りされていました。その区画には清洲越えが多く店を構えており、”碁盤割”と呼ばれていたようです。どれだけ商売が繁盛していても、碁盤割以外は格下と見なされていたと聞きます。岡谷鋼機は、名古屋商人を代表する古い企業ですが、初代・岡谷總助宗治は鉄砲町で創業しており、碁盤割とは呼ばれません。名古屋は、大空襲を受け、名古屋城も焼失しました。戦後、大胆な都市改造が行われ、歴史ある町名の多くが失われました。例えば、清洲越えの魚屋だった料亭・河文のある界隈は”魚棚(うぉんたな)”という町だったようです。老人は、今もそう呼びます。古い町名が消えることで、町の記憶も失われる傾向があります。例えば、金沢は江戸期の町名復活を行い、成功しています。名古屋もやるべきだと思います。

バブル崩壊は、日本経済に深い爪痕を残しました。名古屋では土地バブルが発生しなかったので影響は限定的であり、それが、名古屋奇跡の十年と呼ばれる好景気につながります。地上げなどが起こらなかったのは、今も先祖代々の土地で商売し、暮らしている家族が、土地を売らなかったからだと聞きました。名古屋の保守性がバブルを防いだわけです。名古屋で生まれ育った人は、名古屋の大学を卒業して家業を継ぐ、あるいは名古屋の企業に就職することを良しとする傾向があります。トヨタはじめ輸出で大成功している企業が多いのですが、決して愛知県から出ていきません。従業員も海外駐在を望まないと聞きます。京都企業は、京都で成功すると、東京ではなく、いきなり世界を目指す傾向があります。その違いは、尾張の農民文化に根ざすとも言われます。名古屋は、日本で最も保守的な街かもしれません。(写真出典:online.bunka.go.jp)

清洲越え