2026年7月11日土曜日

船徳

古典落語「船徳」は、滑稽噺ですが、江戸の夏の情緒をよく描いていると言われます。もともとは人情噺として、江戸期に生まれたようですが、明治になってから、初代三遊亭圓遊がアレンジして滑稽噺に仕立てました。にわか船頭の若旦那の滑稽さだけでなく、櫓や棹を扱う仕草、船の上で揺れる客の様子など、細かなところで噺家の腕も試される噺だと思います。それでいて、全体としては隅田川の夏の風情を醸すわけですから、滑稽噺とは言え、前座、二つ目くらいには難易度の高いネタだと思います。何度聴いても飽きのこない噺があります。夏場にうってつけの船徳もその一つだと思っています。 

勘当された若旦那が転がり込んだ先は、設定上、柳橋の船宿ということになります。隅田川と神田川が合流する柳橋界隈は、新興の新橋と並び、”柳新二橋”と呼ばれるほど栄えた花街でした。料亭や船宿が建ち並び、柳橋芸者が行き交っていたのでしょう。柳橋芸者は、東京で一番格上だったと教えてくれたのは、柳橋最後の料亭「いな垣」の女将でした。いな垣も東京で最も格上の料亭と言われていたようです。横綱審議会の会場だったことでも知られます。ただ、私がお邪魔した際には、ビルの中に入り、窓の外に見えるのは堤防だけという有り様で、往時の面影など一切ありませんでした。時代の変化もありますが、隅田川の護岸工事で風情を奪われた柳橋は廃れるしかなかったわけです。いな垣も1999年に店を閉めています。ただ、船宿は、今も数軒残っています。

船宿は、宿泊施設ではなく、船と船頭を抱える水運業者です。今も東京には60軒の船宿があり、屋形船や釣り船の運航を行っています。店によっては、座敷での宴会もできます。20年前の話ですが、屋形船の貸し切りは一艘25万円程度と聞きました。密談をするために2~3人程度で貸し切る人もいたようです。船宿のかき入れ時は、墨堤の花見と両国の花火ということになるのでしょう。それは、江戸の頃から変わっていないように思います。船徳の噺は、7月10日、観音様の功徳日”四万六千日”の出来事です。この日にお参りすると四万六千日分のご利益を授かるとされます。米の一升が米粒46,000粒にあたることから、一生分のご利益というダジャレで四万六千日と呼ぶようになったようです。浅草寺では、四万六千日に併せてほおずき市が開催されています。

噺のなかに、”ぼうず”という軍鶏(しゃも)屋が出てきます。多めのご祝儀をもらったのでぼうずへ繰り出した船頭が、飲み過ぎて他の客と喧嘩になった、というくだりです。”ぼうず 志ゃも”は、両国で、最近まで営業していました。軍鶏は、江戸初期にシャムから闘鶏のために輸入されています。江戸中期、今も人形町で営業している”玉ひで”等の軍鶏鍋が人気となり、江戸の名物とされるまでになります。軍鶏鍋は、門前仲町の有名店“有明”で何度か食べましたが、騒ぐほどのものではないと思いました。いずれにしても、江戸末期から明治の頃の江戸では、ちょっと贅沢な人気の料理だったわけです。池波正太郎の鬼平犯科帳には「夏こそしゃも鍋ですぜ」というセリフがあるようです。恐らく軍鶏鍋で精を付けて夏を乗り切ろうということだったのでしょう。

にわか船頭の若旦那の舟に乗ることになった二人の客は、夏を楽しむ江戸庶民の代表なのでしょう。柳橋の船宿の常連として、舟で吉原に通い、舟で桜や花火を楽しんでいたのでしょう。恐らく、日本橋界隈の商人といったところかと思います。古典落語「船徳」の主人公は、若旦那のように思えます。ただ、若旦那は決して深掘りされることもなく、むしろ狂言回し的存在のようにも思えます。あえて、船徳の主人公を言うのならば、夏の隅田川の風情、ということになるのでしょう。浄瑠璃の道行きにも似た味わいを持っていますが、主人公の心情が重ねられることなく、情景がスケッチされるのみです。船徳は、風変わりで粋な噺と言えそうです。(写真出典:tabashio.jp)

船徳