2026年7月9日木曜日

京成百貨店

水戸への出張は、日帰りと相場が決まっていました。15年程前、あんたが好きそうな居酒屋があるから案内するよ、と水戸支社の知人に言われ一泊したことがあります。その際、居酒屋へ向かう道すがら、京成百貨店を見て驚きました。京成電鉄は、茨城県に鉄道路線もバス路線も持っていません。なぜ水戸に京成百貨店があるのか、と知人に聞くと、詳しいことは分からないが、京成電鉄の社長だった人が水戸出身だったので、水戸にも百貨店を作ったらしい、とのことでした。電鉄会社の戦略としてはピンときません。京成傘下の関東鉄道はあるものの、県南部が主戦場ですし、百貨店を作るなら自社名を使うはずです。なお、水戸には京成ホテルもあり、現在、茨城県のビジネスは、京成電鉄茨城ホールディング傘下に集約されています。 

京成電鉄は、東京と成田山新勝寺を結ぶべく、1909年(明治42年)に設立されています。延伸を重ね、上野・成田間が全線開通したのは1933年のことでした。現在、営業路線としては、近鉄、東武、名鉄、東京メトロに次ぐ私鉄第5位の長さを誇ります。電鉄会社の基本的な戦略は、阪急電鉄の小林一三の発案によるところが大きく、沿線の宅地、商業施設、レジャー施設等の一体開発が特徴です。京成電鉄は、多少異なる路線を採ってきたように思います。路線としては既存の新勝寺の参拝を目玉に据えたこと、そして、沿線にこだわらない開発をしてきたことも特徴的だと思います。その典型は、東京ディズニーランドということになります。その戦略を進めたのが、1958~1979年まで、約20年間に渡り社長を務めた川﨑千春です。

川崎千春は、1903年、水戸に生まれています。もともとは尾張徳川家に仕えた絵師の家系でした。川崎も画才があったようですが、親戚には画家が多く、血はつながっていませんが東山魁夷もその一人だと聞きます。旧制水戸高校(現茨城大学)から東京帝国大に進み、卒業後は川﨑信託(現三菱UFJ信託)、帝都タクシーを経て京成電鉄に会計課長として入社しています。社長就任後は、高度成長の波に乗り、積極的に不動産開発や成田空港への乗入れ、そして東京ディズニーランドの開発を手がけていきます。特に、東京ディズニーランドは、埋め立てから、ディズニー社との誘致交渉も含め、20年を超える取組の成果でした。水戸の京成百貨店も川崎社長時代に誕生しています。水戸支社の知人の言うとおり、水戸出身の社長が関与していたわけです。

水戸京成百貨店の前身は、常陸太田の小間物屋”島津商店”が経営する志満津百貨店でした。その高級路線は、戦後復興が進む水戸で人気となり、経営は順調だったようです。しかし、水戸市の経済成長は、中央からの大型店舗の出店ラッシュにつながります。これに危機感を持った志満津百貨店は、沿線外開発に積極的だった京成電鉄と資本提携に踏み切ります。当時、京成電鉄は、市川、上野、土浦に百貨店を設立し、水戸進出も視野に入っていたようです。志満津百貨店は水戸京成百貨店となり、地盤を固めていきます。ただ、百貨店への進出が遅れた京成電鉄は、水戸以外の店舗で苦戦が続き、早々に閉店に追い込まれていきます。市川店は残りましたが、実態はスーパーマーケットでした。市川京成百貨店跡地は、現在、京成電鉄の本社となっています。

百貨店は、提案のビジネスだと思います。一定のコンセプトや価値観に基づき、新たな生活や商品を提案することで、リピーターを生み、ふりの客を呼び込みます。そこがしっかりしていないと、他店や他業態との違いがあいまいになり、流通の荒波に飲み込まれていきます。百貨店の閉店ラッシュは、主に地方で起こりました。ショッピング・センターやEコマースに客を取られた、地方都市自体が地盤沈下している等の理由が挙げられています。しかし、一定の商圏の存在は前提となりますが、コンセプトがブレない限り、百貨店は生き残っていくものと考えます。大雑把に言えば、富裕層を対象とするリピーター戦略しかないと思います。恐らく、水戸京成百貨店は、それがハマっているのでしょう。(写真出典:kumesekkei.co.jp)

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