2026年7月19日日曜日

徳政令

後醍醐天皇が鎌倉幕府の打倒を計画すると、幕府の御家人だった楠木正成、足利尊氏、新田義貞らが呼応し、1333年、鎌倉幕府は滅びます。倒幕は、後醍醐天皇が先導したように思われがちですが、いささか微妙です。後醍醐天皇の最大関心事は、天皇位を巡る持明院統・大覚寺統の争いであり、自らの正統の確保でした。自分の思惑に沿わない執権・北条高時を打とうとしたのは事実としても、倒幕、さらには天皇親政まで意図していたかは疑問です。鎌倉幕府滅亡の主な要因は、元寇後の御家人の困窮と幕府への不満だったと言えるのでしょう。さらに大きな視点から言えば、鎌倉幕府は、平清盛がもたらし、急速に広がった貨幣経済によって滅ぼされたとも言えます。実に皮肉な話です。

鎌倉幕府は奉公と御恩で成り立っていました。御恩とは、取りも直さず恩賞としての領地です。元寇は、対外戦争であり、防衛戦だったために、新たに獲得した土地はありませんでした。一方、全国各地から博多へ奉公のために駆けつけた御家人たちは、相当の出費を強いられています。借金を抱える者も多くおり、土地や家財を失い、没落していく者が絶えませんでした。理屈は分かっていても、幕府への不満は高まる一方でした。幕府は、得宗家への権力の集中で乗り切ろうとしますが、世情は悪化していきます。そして、1297年、幕府は永仁の徳政令を発します。本来、徳政とは、儒教の精神に基づき、民衆に恩恵を施す政治を指します。鎌倉期以前にも、貧民の救済、恩赦、訴訟処理、あるいは神事の催行などが行われてきました

永仁の徳政令は、御家人体制の維持が目的だったとされます。借金の棒引きや担保で取られた土地の返還が命じられる一方で、御家人は所領地の売買や質入れが禁止されました。貨幣経済が浸透し、分割相続制によって御家人の零細化が進む社会で、経済原則を無視した政策は大きな混乱を招き、徳政令はわずか1年で廃止されています。日本の貨幣は、7世紀の富本銭、8世紀の和同開珎に始まりますが、銅の不足から信用を失います。平安期末期になると、商品経済化が進んだことにより、平清盛が大量に輸入した宋銭によって貨幣経済化も一気に進むことになります。平家勃興の背景には、この大量の宋銭があったとされています。余談ながら、独立国家が、約500年間も外国通貨をそのまま自国通貨として流通させていたことは、他に例を見ないと聞きます。

室町期、農民などの自治的組織である惣村が形成されると、徳政令を求める土一揆が頻発し、幕府や大名が対応せざるを得なかったようです。室町も中期になると、幕府は、徳政令の利用、ないしは阻止に手数料を課す分一徳政令を行うようになります。徳政令のビジネス化と言えます。戦国期に入っても大名単位の徳政令は続きましたが、末期になると弊害も認識されるようになり廃れていきます。これは、商品経済、貨幣経済が社会に浸透し、商人たちが力を持つようになってきたことの現れなのでしょう。商業資本の誕生です。続く江戸幕府の統治の基本は、封建制、農本主義に基づく幕藩体制でした。しかし、一方で、新田開発、商品開発、交通網の整備等を背景に市場経済化が進みます。そこで生じたギャップは旗本たちの困窮につながります。

江戸の人口の半数を占める旗本の借金は、経済の悪化にもつながります。幕府は、困窮する旗本対策として、寛政の改革、天保の改革に併せて棄捐令を打ち出します。事実上の徳政令です。ただ、経済の混乱も、商人の反発もなかったようです。改革の一部だったこと、商業資本が巨大化していたこと、また、50年の間をおいて2度の徳政令なので、受入れやすかった面もあるのでしょう。しかし、度々の改革にも関わらず、幕藩体制が経済的に破綻したことから江戸幕府は倒れます。昨今、政府・国会は、令和の徳政令とばかりに、物価高対策としての消費税減税を議論しています。日本の経済は千年前と大違いですが、お上が目先の議論に終始することは何も変わっていないとも言えます。少子高齢化による経済基盤の縮小こそ議論すべき課題だと思います。政治が不在に近い状態が続くなか、日本の三流国家化はどんどん進んでいきます。(写真出典:touken-world.jp)

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