2026年8月20日木曜日

夢浮橋

 「夢浮橋」は、源氏物語最終巻のタイトルですが、人生や世の中のはかなさを表す言葉でもあります。また、後醍醐天皇が、生涯、手元から離さなかったという盆石も「夢浮橋」という銘でした。中国の産とされる長さ30cm弱の平たい石は、底面の全てが接地しているように見えますが、実は両端がわずかに接地するのみで宙に浮いています。底面には後醍醐天皇の筆とされる「夢ノ浮橋」の銘が書かれています。地に着いているようで浮いているという石は、後醍醐天皇の生涯を象徴しているようにも思えます。また、後醍醐天皇自身も、思うようにならない人生を、この石に投影していたのではないでしょうか。盆石「夢浮橋」は、後に徳川家康の手に渡り、現在は名古屋の徳川美術館に収蔵されています。

後醍醐天皇と言えば、鎌倉幕府を倒して天皇親政を行うものの、武士の反発を受けて失敗し、吉野に南朝を開いた天皇ということになります。江戸期から昭和にかけ、北朝・室町幕府の視点から長く酷評されてきた後醍醐天皇ですが、近年は研究が進み、優れた為政者にして文化人、また信心に厚く、温厚な人だったという評価が広まっているようです。後醍醐天皇が、大覚寺統の後宇多天皇の第二皇子として生まれたのが、1288年、両統迭立の時代でした。両統とは、後嵯峨天皇の第3皇子後深草天皇の子孫である持明院統、第4皇子亀山天皇の子孫である大覚寺統を指します。後嵯峨上皇が後継を明確にせずに亡くなったため、両統が正統を主張して対立し、結果、鎌倉幕府が仲裁に入り、10年毎に両統から交互に天皇を立てるという両統迭立の時代に入ります。

妥協は不満しか生まないものです。両統迭立とは言え、自己の正統にこだわる両統の対立は続きます。その期間を後嵯峨上皇の崩御から南北朝の終焉までとすれば、120年間に渡ったことになります。対立は、大覚寺統のなかでも起こります。大覚寺統の後二条天皇が崩御し、持明院統の花園天皇が即位すると、皇太子に立つのは後二条天皇の第一皇子・邦良親王が順当でした。しかし、幼少、病弱であったため、後二条天皇の弟である後醍醐天皇が皇太子となります。後醍醐天皇が即位すると、皇太子は持明院統から出すことになりますが、後宇多上皇は、後二条天皇の在位が短かったことを理由に、大覚寺統から出すことを幕府に押し込み、邦良親王が立ちます。後宇多上皇は、この機を捉えて、大覚寺統がイニシアティブを取ることをねらったものと考えます。

その意図は、後醍醐天皇とも共有されていたのではないでしょうか。邦良親王が成人となり、皇子も生まれ、践祚の準備が整っても、後醍醐天皇は譲位しませんでした。大覚寺統の正統といえる邦良親王ではなく、自らの子孫を正統にすることに執着したとされます。後醍醐天皇は、時間を稼いで持明院統を追い落とすという後宇多上皇の作戦から着想を得て、自らの子孫の正統を確立しようとしたのかもしれません。あるいは、後宇多上皇の作戦を確実なものにするために、裏で上皇と結託し、あえて時間稼ぎをしたのかもしれません。上皇は、後醍醐天皇に譲位を迫っていたようですが、それも味方と敵を欺くための戦術だったとも考えられます。1324年、後醍醐天皇が倒幕を画策したという正中の変が起こります。幕府が調査した結果、後醍醐天皇は無罪とされます。

近年、正中の変は、後醍醐天皇追い落としをねらう邦良親王と持明院統の謀略だったという説が有力視されているようです。この時点まで、後醍醐天皇と幕府は良好な関係にあったとされます。翌々年、邦良親王が亡くなると、後醍醐天皇は、邦良親王の皇子と並んで自らの皇子をも皇太子候補とします。結果として、幕府は、両統迭立の考えから持明院統から皇太子(後の光厳天皇)を立てます。ここに至り、後醍醐天皇は倒幕の烽を上げることになります。緒戦に敗れた後醍醐天皇は隠岐に流されますが、脱出し、ついに鎌倉幕府を倒します。後醍醐天皇は、天皇親政を目指して幕府と戦った不屈の人とも言われますが、あくまでも大覚寺統、そして自らの子孫の正統化に執着していただけなのではないでしょうか。建武の新政は結果論であり、南朝開闢も天皇親政ではなく血筋にこそ動機があったものと思います。(写真出典:tokugawa-art-museum.jp

夢浮橋