2026年6月21日日曜日

千葉氏

”千葉城”
JR千葉駅から本千葉駅へ向かうと、左手の丘の上に城郭が見えてきます。初めて見た人は、必ずと言っていいほど、千葉市に城があるとは知らなかった、と言います。実はその通りであって、歴史上、千葉市に天守閣を持つ城郭は存在していませんでした。通称、千葉城と呼ばれている建築物は、1967年に城郭を模してコンクリートで建設された千葉市立郷土博物館です。”千葉城”が建つ丘は亥鼻(いのはな)と呼ばれ、中世には亥鼻城があるにはあったのですが、平山城でした。従来、千葉氏の居城とされてきましたが、現在では発掘や研究が進み、千葉氏の家老だった原氏の平山城だったという説が有力になっているようです。

千葉という地名は、下総の豪族・千葉氏が支配していたことから定着した地名と思われがちです。しかし、千葉という地名は古くから存在し、万葉集にも登場しています。草木が生い茂る豊かな場所という意味だったようです。千葉氏は、桓武平氏の流れを汲む坂東平氏の平常兼が、11世紀中葉、千葉荘を支配して千葉大介を称したのが始まりとされます。坂東平氏は、898年、桓武天皇の孫にあたる平高望が上総介として下向したことに始まります。高望の子孫は、近隣に勢力を拡大していきますが、なかでも高望の側室の子であった良文の子孫は、坂東各地で武士団を形成しました。なかでも、千葉氏、上総氏、三浦氏、土肥氏、秩父氏、大庭氏、梶原氏、長尾氏の八氏は、坂東八平氏として知られます。うち房総を拠点とした千葉氏と上総氏は房総平氏とも呼ばれます。

1180年、以仁王の令旨に応じて平家追討の兵を挙げた源頼朝は、伊豆の石橋山の戦いで敗れ、海路、安房国へ渡ります。房総の地で再挙した頼朝に加勢したのは房総平氏でした。千葉氏の3代目当主だった千葉常胤(つねたね)も、上総国の上総広常、安房国の安西景益とともに参陣します。平氏が源氏方に参陣することは腑に落ちない面もありますが、房総平氏が、下総国目代の藤原親政の圧政下にあったことが背景と言われます。親政の妻は、平清盛の正室・時子の妹でした。平清盛の勢いは、坂東にまで及んでいたわけです。清盛は伊勢平氏の当主ですが、伊勢平氏は、もとをただせば坂東平氏の傍流です。都で貴族化した伊勢平氏は、他の平氏一門を隷属化させていました。同じ桓武平氏ながら坂東平氏も同様の扱いを受けており、不満を抱いていたのでしょう。

加えて、千葉常胤は、上総氏や周辺の豪族との領土争いが続き、所領を守ることも厳しい状況にあったようです。しかし、頼朝に従った常胤は、治承・寿永の乱、いわゆる源平合戦で戦功を挙げ、有力御家人にまで上ります。頼朝に鎌倉を拠点にすべきと進言したのも常胤だとされています。また、房総平氏の当主となっていた上総広常が、1184年、頼朝に謀殺されたことで、常胤は房総平氏の当主になり、下総の守護にも任命されます。しかし、鎌倉時代中期、一族が三浦氏の乱に加担したために千葉氏は処分を受けます。南北朝時代になると、一族は南北に別れて戦います。室町中期、事実上の戦国時代の始まりとも言われる享徳の乱でも、一族と家臣が関東管領側と鎌倉公方側に別れて戦います。その後も一族の内紛が続き、最終的には、秀吉の小田原成敗によって後北条氏とともに滅ぼされ、一族は離散することになりました。

武家の本質は、領土を武力と一族の団結で維持・拡大することにあると思います。激しく動く歴史の波に翻弄されたこと、そして一族の結束を維持できなかったことが、千葉氏の滅亡につながったのでしょう。千葉氏の興廃の歴史は、まさに武家の歴史の縮図のように思えます。江戸期になると、下総国、上総国、安房国には、佐倉藩を除けば、天領、20を超える小藩、旗本領等がまだら状に分布されることになります。幕府は、江戸への近さゆえ、この地に有力な藩を置くことを避けたのだと言われます。千葉の町は、古くから交通の要所として栄えており、江戸期には千葉妙見宮の門前町としても知られる存在になりました。城はなくても賑わっていたわけです。歴史的背景もないのに、昭和になってから、わざわざコンクリートの城を建てる意味があるのかと言えば、疑問と言わざるを得ません。県民としては、むしろ貧困な発想を恥ずかしいと思っているのではないでしょうか。(写真出典:jaran.net)

千葉氏