チュルリョーニスについては、今回の展覧会までまったく知りませんでした。いや、それどころか、リトアニアについても、ほぼ何も知らなかったと言えます。知っていることと言えば、ソヴィエトから独立したバルト三国の一つであること、元大関・把瑠都の出身地であること、そして杉原千畝によるユダヤ人救出の舞台であったこと、以上が全てでした。リトアニアは、バルト三国の最も南に位置する国です。西はバルト海に面し、北はラトビア、南はポーランド、東はベラルーシに接しています。国の面積は6.53万 km²と北海道よりやや小さく、人口は280万人です。紀元前2000年頃からバルト族の定住が始まり、1009年に至り、初めてリトアニアの国名が文献に登場しています。
13世紀前半には、ミンダウガスが国を統一し、王として戴冠します。多神教だったリトアニア王国は、ドイツ騎士団など北方十字軍の攻撃を受ける一方で、東へと領土を拡大していきます。そして14世紀末には、ウクライナ全域、およびポーランドとロシアの一部を含む、ヨーロッパ最大の国土を有する国になります。つまり、リトアニアは、キエフ大公国を飲み込むかたちで欧州最大の国家になったわけです。キエフ・ルーシ(キエフ大公国)は、9世紀、ノルマン人、いわゆるヴァイキングによるスラブ支配から始まっています。ルーシとは国と理解して良さそうですが、もともとはヴァイキングを指すスラブ語だったようです。キエフ・ルーシは、バルト海から黒海にいたる広大な地域を支配していました。ルーシは、現在のロシア、ベラルーシの語源ともなっています。
バルト海の小国が、巨大なキエフ・ルーシを支配するに至ったことは驚きです。それを可能にした要因は主に二つあるように思います。一つは、巨大だったキエフ・ルーシが、時とともに、小ルーシの緩やかな連合体に変わっていたこと、そして”タタールのくびき”、つまり13世紀後半に起こったモンゴルの侵入と支配です。小ルーシは連合を組んで戦いますが、人口が半減したと言われるほどの激しい攻撃に敗れ、キエフ・ルーシは消滅します。そこへリトアニアが浸透していったわけです。しかし、小国の悲しさゆえ、巨大化したリトアニアの統治は、ほとんどスラブ人によって行われていたようです。15世紀末には、モスクワ・ルーシが力をつけてリトアニアの脅威となります。16世紀中葉、リトアニアは、ポーランド・リトアニア共和国を建国し対抗します。
当初、主導権を握っていたリトアニアでしたが、ほどなくポーランド優勢に変わります。リトアニア諸侯は法律上持っていた自由拒否権を使って、ポーランド勢に抵抗します。これがリトアニアの近代化を遅らせたと言われています。最終的には、17世紀の北方戦争で国土は興廃し、続く18世紀初頭の大北方戦争ではロシア側に敗れ、リトアニアはロシアの属国になります。第1次世界大戦後、一旦、ロシアから独立しますが、第2次大戦後、再びソヴィエトに吸収されます。リトアニアの歴史を見ると、小国ゆえの悲哀を感じます。しかし、1944~1952年、約10万人のパルチザン「森の兄弟」がソヴィエトと戦ったことが、リトアニアを理解するためには重要なのだと思います。恐らく、その不屈の精神、プライドこそがリトアニアなのだろうと思います。(写真出典:store.shopping.yahoo.co.jp)
