2020年8月7日金曜日

蛇と女と道成寺

能楽「道成寺」を、国立能楽堂で鑑賞してきました。シテは、宝生流宗家宝生和英。鐘入りはじめ、ある意味、釣り鐘が主役とも言える「道成寺」ですが、一番の見せ場は、乱拍子と呼ばれるシテと小鼓のインタープレイだと思います。そのテンションの高さは見事なものです。見ている間に、蛇男は聞いたことがないのに、なぜ蛇女はあまた存在するのか、気になってきました。

「道成寺」は、室町後期の観世信光の作とされます。平安期の仏教説話、安珍・清姫の話を下敷きに、その後日譚という構成になっています。安珍・清姫の説話は、いくつかのバージョンがあるようです。「道成寺」で語られるのは、真砂の荘司の娘が、夫婦になると聞かされていた山伏に騙されたと思い、蛇に化身して、道成寺の釣り鐘に隠れた山伏を鐘ごと焼き殺し、自らは入水する。道成寺の住職が法華経を唱え、二人を成仏させるというものです。

その後、道成寺に釣り鐘はなかったのですが、室町時代に至り再興します。その鐘供養の場に紛れ込んだ白拍子が、実は蛇の化身だった、というのが後日譚「道成寺」です。成仏したはずの清姫でしたが、四百年たっても、まだ恨んでいたわけです。なんという執念。この執念深さこそが、蛇と女性を結び付けているものなのでしょう。しかし、蛇も女性も本来的に執念深いものというわけでもなさそうです。

そもそも人間は、恐竜に関する古い記憶から爬虫類を恐れると言われます。旧約聖書の蛇はイブに林檎を勧めます。中国の白蛇伝や欧州のラミアーは、青年を性的に誘惑し、食べます。恐怖のシンボルなのでしょうが、知性を持っているところが、執念につながるのかも知れません。一方、女性は、家父長制のなかで抑圧された存在であったことが、逆に家父長制を脅かす恐怖として、蛇と結びつきシンボル化されたのかもしれません。旧約聖書も白蛇伝もギリシャ神話も、男性が作者だったのだろうと思います。
写真出典:manjiro-nohgaku.com

マクア渓谷