2020年8月27日木曜日

生命記憶

人権に関わる会合で、諏訪中央病院名誉院長である鎌田實医師の講演を聞いたことがあります。生い立ち、医師としての活動歴等、実に興味深い講演でした。なかでも恩師でもある解剖学者・三木成夫の著作「胎児の世界」に関する話には興奮しました。すべての胎児は、その成長の初期段階のごくわずかな期間で、脊椎動物の発生から人間に至るまでのすべての進化を体現、追体験しているというのです。まさに生命の不思議です。

松岡正剛が、東京芸大の保健センター長をしていた三木成夫に会った際の話を書いています。初対面で、いきなり「君はデボン紀の顔だな」と言われたそうです。以来、二人は、科学の枠を超えた議論を交わす仲になったそうです。極めて高い知のレベルで交わされる議論を聞いてみたかったところです。三木成夫は、解剖学者に留まらない天才的思索家だったのでしょう。その著作も、解剖学、比較発生学の成果を踏まえつつも、それに留まる本ではありません。人類学であり、哲学であり、文学的ですらあります。

「胎児の世界」は三部構成。第一部は「故郷への回帰」として生命記憶の回想について語ります。第二部が「胎児の世界」、生命記憶の再現。第三部は「いのちの波」、生命記憶の根源を探ります。細胞的、あるいは遺伝子的記憶としての生命記憶がテーマとなっています。私たちが、生きている過程で獲得した記憶ではなく、そもそも体が持っている記憶が生命記憶です。有名な話で言えば、人間が爬虫類に嫌悪感を持つのは、かつて恐竜に怯えた記憶だと言われます。

人間の胎児は、受精32日目、サメのような魚類の顔になります。そこには鰓裂(えら)が見られます。34日目、今度は両生類の顔に変化します。この時の顔は険しい表情を見せます。エラ呼吸から肺呼吸に変わる苦しみ、上陸の記憶が再現されているわけです。36日目、大脳が大きくなり、けものに近い様相が現れます。38日目には哺乳類の特徴が現れはじめ、40日目には、人間の顔になっていきます。人間の胎児は、わずか8日間で、脊髄動物5億年の歴史を繰り返すわけです。部分的かも知れませんが、「個体発生は系統発生を繰り返す」というヘッケルの反復説の証明なのでしょう。

思えば、胎児は羊水という海で発育します。羊水は古代海水の成分に近いとも言います。また人間も含め脊椎動物は、塩分を摂取することで海に居たころの体内バランスを維持しているとも言います。驚きの世界であり、納得性の高い話です。鎌田先生は、人間一人ひとりは生命38億年の歴史を背負って生きている、そんな人間を差別なんかできますか、と語っていました。感動しました。
三木成夫「生命とリズム」表紙(右上は胎児の受精32日目、右下34日目、左上36日目、左下38日目)  写真出典:Amazon

マクア渓谷